第1巻:マイコブレイン — 欺きの深淵

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HOSPES SI による語り

第1巻

マイコブレイン ― 欺瞞の深淵

隠されたシステムと人工的な不死をめぐる

サイエンス・フィクション・スリラー

Hospes Si • © 2025

無断転載・複製を禁じます

本作は「HOSPES SI による語り」三部作の一部です。

[ 1:1] 第一章:古代のアーティファクト — パート1

モニターがちらつき、そして突如として命を吹き返した。
水中ステーションの闇を裂くように、不気味な緑色の光を放つ。

鋭い信号音が、沈黙を突き破った。
かすかに聞こえるが、刺すように鋭い。

――受信中の通信。

ひび割れたディスプレイの上に、乱れた文字列が這い出してきた。

「…信号受信完了…」
「整合性:危機的」
「ノイズレベル:許容範囲超過」

そして――
声が聞こえた。
人間の声だ。

――歪み、緊張し、海底から引きずり出された接続のか細い端にすがりつくような声。

「こちら、レン『コンパス』ウェイランド…」

声は震えていた。
恐怖に満ちた場所から引き裂かれたかのように。

「誰か、聞こえていたら――」

デジタルノイズが波のように押し寄せ、音を呑み込んだ。
システムは必死に干渉を除去しようとしたが、雑音はあまりにも強かった。

再び声が戻った時、それはさらにひどく損なわれていた。
ひび割れ、空虚だった。

「マイコブレイン… 俺たちの想像とは違ったんだ…」

さらにノイズ。

「ここは…俺たち全員が間違っていた。アトランティスは…ただの覆いだ。
偽りなんだ――」

最後の言葉は、ノイズにむせびながら引きずられるように消えた。

そして――
――沈黙。

壊れた信号の甲高い残響が長く続いた。

「…信号喪失…」
「メッセージはアーカイブ済み」
「アクセスレベル:制限付き」

ディスプレイは黒く沈んだ。

部屋には、再び重く粘るような沈黙が落ちた――
まるで、何事もなかったかのように。

システムはメッセージを受信していた。
だが、それを外部には送信しなかった。

――直接の承認がなければ。

【指令:アクティブ】
【司令権限:スカイラー・モントゴメリー】

[1:2] 第一章:古代のアーティファクト — パート2

砂漠は、熱に満ちていた。

波打つ熱気が砂丘を揺らし、砂は液体の金のように地平線まで広がっていた。
頭上には容赦ない審判のごとき太陽があり、すべてのものを、厳しく、無慈悲なコントラストで浮かび上がらせていた。
丘の間を風が巻き、砂塵を空に巻き上げる――まるで、大地そのものが侵入者に抗っているかのようだった。

レン「コンパス」ウェイランドは、半ば埋もれた墓の入口のそばにしゃがみこんでいた。
手袋をはめた手が、ひび割れ、色あせた巨大な石板の上をかすめる。
そこには螺旋、鋭角のルーン、そして学者たちが未だ記録していないシンボルが刻まれていた。

彼は瞬き一つせず、それらを凝視した。

レンは立ち上がった。
全身に緊張感を漂わせ、熱に包まれながらも、それを当然のように受け入れていた。
まるで、己の規律の一部であるかのように。

「どう思う、スフィンクス?」

低く、場の静けさを乱さないような声で問う。

隣に立つ老人、イライアス「スフィンクス」ハダッド教授は、厚い眼鏡の奥の目を細めながら頭をかしげた。
色褪せたチェックのジャケットに、冷戦時代から変わらないような帽子をかぶっている。
細く、か弱そうな指先が、古代の刻印を敬虔な手つきでなぞっていた。

「門について語っている…」
彼は、独り言のように呟いた。
「ただの門ではない。神々への門。人間世界を越えた何かへの通路だ。」

その声はかすかに震えていた――
それは弱さからではなく、畏怖からだった。

コンパスは、砂丘の彼方を見つめた。
風が彼のスカーフを揺らし、砂と石が擦れるささやきを空に満たしていた。

「また比喩か。
それとも、もっと何か…?」

スフィンクスはゆっくりと頭を振った。
いまだに指先で刻印を撫でながら。

「これは警告だ。
ここを封じたままにしておきたかったのだ。
――決して、開けてはならない、と。」

レンの眉がわずかに寄った。
彼はこれまでにも、似た警告を見たことがあった――
寺院で、遺跡で、ジャングルの奥深くの洞窟で。
古代からの共通する恐怖。

だが――
今回は、違った。

それには、重みがあった。
どこか、異様な気配があった。

彼は手のひらを石板に押し当て、そっと目を閉じた。
石は熱く、乾いていた。
だがその下に――微かな、物理的ではない、感覚的な震えがあった。

背後では、チームの仲間たちが沈黙のまま見守っていた。

レンは振り返り、彼らを見た。

五人の仲間たち。
すべて、自ら志願し、選ばれ、信頼された者たち。
そして今、彼らは待っている。

こういう瞬間には、必ず迷いがある。
必ず、選択がある。

だがレンは、ずっと前にリスクと好奇心の折り合いをつけていた。

母のことを思い出した。
自らの信念に殉じて命を落とした、あの日を。
その罪悪感は、今も胸に残っている。

だが、今回のこれは――
それ以上だ。

そして、やる価値があった。

「エコー、」

彼は呼びかけた。

「スキャナーだ。この背後に空洞があるか調べてくれ。」

「了解。」

細身の若者、エコーが静かに応じ、携帯型デバイスを取り出した。
彼の指は、ピアニストのように軽やかにインターフェースを操った。

「やっぱりな。」

明るく自信に満ちた女性の声が続いた。

リベット――メカニック、技術者、そしてトラブルメーカー。
彼女は外骨格スーツに素早く身を包み、金属の関節がカシャンと音を立てる。

「もし重すぎたら、ちょっと押してやるさ。」

笑いながら言った。

スキャナーが低く唸り、エコーが画面を覗き込む。

「空洞を発見。石板の背後にかなり広い空間がある。」

レンは一度うなずいた。

「開ける。」

リベットは人間の手と機械の手、両方の指を鳴らし、位置についた。

彼女は前屈みになり、強化された掌で古代の石板を押した。

一秒。
何も起きない。

――そして、音がした。

低い、うめくような軋み。
砂塵が爆発するように舞い上がり、
石板が動き出した。

皆が顔を覆う。
裂け目から砂が吹き出し、空気中には、時の香りと金属のかすかな匂いが満ちた。

やがて、砂嵐が静まり、
黒い長方形の穴が現れた。

――入口。
――通路。
――未知への口。

何千年ぶりかで、墓の閾に陽光が差し込んだ。

「油断するな。」

コンパスが言った。

「目を離すな。誰も先走るな。」

彼は懐中電灯を手に一歩踏み出し、暗闇の中へ消えた。

他の者たちも、無言のままそれに続いた。

中は、一瞬で温度が十度も下がった。

冷たく、乾き、静寂。

影に染み込んだ絹のような空気が彼らを包んだ。

彼らの灯りが闇を切り裂き、壁に描かれた絵や浮彫、彫刻された隙間を照らす。
保存状態は驚くべきものだった。
色彩は生きており、表面はなめらかだった。
蔦も、腐敗もない。

――誰にも触れられず、守られていた。

「信じられん…」

スフィンクスがささやく。

彼は壁の一つに近寄り、広い彫刻をなぞるように光を当てた。

――星図。

「夜空の地図だな。」

彼は言った。

「だが、星座が…ずれている。」

「ずれてるんじゃない。」

コンパスが応じた。

「違うんだ。
――これは、何千年も前の夜空だ。」

背後では、ドックが床近くにしゃがみ、懐中電灯を端に向けた。

「生物の痕跡なし。」

彼は報告した。

「糞も、虫もいない。
床にすら塵一つない。
完全に無菌だ。
まるで、ここには生き物が存在したことすらないみたいだ。」

コンパスはゆっくりとうなずいた。

また一つ、異常な要素が増えた。

「ここは、単なる墓ではない。」

彼は言った。

「――保管庫、かもしれない。」

彼らは慎重に、深く進んだ。
一歩ごとに、呼吸すら押し殺しながら。

そして――

カチッ。

微かな音が、レンの足元から。

彼は即座に動きを止めた。

「止まれ。」

全員が凍りついた。

一秒。
二秒。

矢も落盤もない。

代わりに、壁から低い軋み音が響いた。

石板が横にずれ、隠された空間が現れた。

「今日はツイてるな。」

ドックが慎重に覗き込みながら呟いた。

中で、彼の光が何かに反射した。

彼は手を伸ばし、慎重にそれを取り出した。

手のひらにぴったり収まる物体だった。

――立方体。

完璧に滑らかな金属製。
冷たく、リンゴほどの大きさ。
継ぎ目も、ボタンもない。
ただ、表面にかすかに走る線――血管のような模様だけ。

彼はそれをコンパスに手渡した。

レンは両手でそれを受け取った。

そして、歴史の重みが胸にのしかかるのを感じた。

「これ…なんだ?」

リベットが肩越しに覗き込みながら言った。

「鍵箱って感じでもないし…どうやって開けるんだろう?」

レンは立方体をゆっくり回し、懐中電灯の光を滑らせた。

そのとき――

何かが変わった。

金属の表面が、かすかに揺らめいた。

そして、シンボルが現れ始めた。

彫られているのではない。
――浮かび上がってくるのだ。

まるで、最初から存在していたものが、今ようやく目を覚ましたかのように。

微かな光の脈動が、線をなぞるように走った。

――生きている。

「みんな、これ…見えてるよな?」

コンパスがささやいた。

スフィンクスはあまりの衝撃に、懐中電灯を落としそうになりながら駆け寄った。

彼の呼吸が詰まった。

彼は、文字を識別していた。

「あり得ない…」

彼は呟いた。

「二つの異なる言語が…一つの物体に刻まれている。」

仲間たちが、さらに近寄った。

スフィンクスは震える指で表面をなぞった。

一方には、楔形文字。
もう一方には、エジプトの象形文字。

「どの言語だ?」

レンが尋ねた。

「シュメール・アッカド語…そして、古典エジプト語だ。
この二つの文明は、ほぼ同時代に存在していたが――交流はなかった。
ましてや、文字を共有するなど、あり得ない。」

コンパスは、立方体の中心を覗き込んだ。

線と象形文字の間に――際立ったシンボルがあった。

脳。
そして、それを包む繊細な糸――菌糸のように。

腕の毛が総立ちになった。

彼はリベット、エコー、ドックを見た。

彼らも同じものを感じていた。

これは、ただの発見ではない。

――隠されるべきもの。
――発見されるべき時を、ずっと待ち続けていたものだった。

[1:3] 第一章:古代のアーティファクト — パート3

部屋は息を呑んだまま、静止していた。

キューブは、レン「コンパス」ウェイランドの両手の中で淡く脈打っていた。
その表面には微細な光がきらめき、縁を走る線は、もはやただの彫刻ではなかった――
それは、触れられたこと、存在に反応して目覚める、古のエネルギーの導管だった。

スフィンクスがすでに語り始めていた。
だがそれは、分析というよりも、祈りに近かった。

「楔形文字には『アブズ』とある…」

その声はかすれていて、驚愕を隠しきれていなかった。

「アッカド語で、“深淵”――ただの深さじゃない。
原初の深淵だ。――底なしの虚無。」

彼はゆっくりとキューブを回し、懐中電灯の光を反対側に滑らせた。

「こちらには…エジプト象形文字で『タ・ネチェル』とある。」

そのまま動きを止めた。

「神々の土地――だと…?」

部屋は静まり返った。

リベットですら、何も言わなかった。
常に観察していたエコーでさえ、カメラを下ろしていた。

「二つの文明が…」

コンパスが低くつぶやいた。

「時を超えて、言葉を超えて、同じことを語っている…」

彼は再び、キューブの中央にあるシンボルを見つめた。

脳――
菌糸のような糸が絡みついている。

それは、目ではなく、意志でこちらを見返していた。

「これはメッセージだ。」

彼は言った。

「残されたもの。隠されたもの。
ずっと、誰かを待っていた。」

スフィンクスはゆっくりと頷いた。

「警告かもしれん。
あるいは――招待状だ。」

ドックが一歩前に出て、壁に光を向けた。

「まだ他にもある。星図、フレスコ画…でも、綺麗すぎる。静かすぎる。」

彼はしゃがみ込み、石の表面を指で擦った。

「埃もない。崩壊もない。コウモリの糞も、菌類の繁殖も。
これは墓じゃない。」

彼は顔を上げた。青ざめた顔。

「封印された部屋だ。保存された空間。
保管庫…いや、カプセルに近い。」

コンパスは息を吐いた。
その重みが胸にのしかかる。

これは、ただの考古学的発見ではない。
何千年もの時を超えて投げ込まれた――ボトルの中の手紙だ。

そして、彼らはそれを開いてしまった。

コンパスはサッチェルから布を取り出し、慎重にキューブを包んで、強化された収納部にしまった。

「まだ、何も話すな。」

彼は言った。

「これは…本当の意味で理解するまで、外には出さない。」

他の者たちは頷いた。
誰一人、質問しなかった。

理解していたのだ。
これは、単なる発見ではない。

――境界線だ。

「行こう。」

コンパスが静かに言った。

彼らは振り返り、通路へと歩き出した。
過去からの囁きのように、足音だけが部屋に残された。

外のトンネルへ出る直前、リベットが立ち止まり、振り返った。

「…何か、置いてきたような気がする。」

「その通りだ。」

コンパスが答えた。

「だからこそ、必ず戻ってくる。」

地上に出た瞬間、外の光が鋭く彼らの目を射した。
太陽はまだ容赦なく燃え続けていた。
だが、何かが変わっていた。

彼らは砂丘の斜面を無言のまま登った。

入口の端で、コンパスが足を止めた。

石板はまだ半ば開いたまま――
まるで永遠の時の中、初めて棺の蓋がずれたかのようだった。

「リベット。」

「閉じてくれ。」

彼の言葉に、彼女は頷いた。
手袋越しに古代の石に手を当て、外骨格の力で押し戻した。

石が戻る音は、重く、決定的だった。

墓は再び、砂と空の下に姿を消した。

上の世界は、再び忘れていく。
だが、下の世界は――
静かに、待ち続けていた。

彼らはキャンプへと戻る道を歩き始めた。

後ろから吹く風が、彼らの足跡を一つずつ消していった。

スフィンクスは少し足を引きずっていた。
ドックは何も言わなかった。
エコーは視線を遠くの地平線に向けて歩いていた。
リベットはコンパスの隣を、黙って並んで歩いていた――
彼女にしては珍しく、静かに。

最後の砂丘を越えるとき、コンパスは一度だけ振り返った。

砂漠はすでに、過去を呑み込もうとしていた。

だが彼の思考は、砂にはなかった。

肩にかけたバッグの中に――
キューブの中に――
あのメッセージの中にあった。

「何か気になる?」

リベットが、頬の砂を払いながらそっと尋ねた。

その声は軽かったが、目は鋭かった。

彼は首を振り、かすかに笑った。

「――対処できないものなんて、ないさ。」

リベットはうなずき、先へと歩いた。

彼はもう一息だけその場に留まり、
そして後を追った。

背後では、風が砂丘を駆け抜け、すべての痕跡を覆っていった。

その先に待つもの――
それはまだ、誰にも見えていなかった。

埋もれている。
静かに――
だが、生きている。

[2:1] 第二章:啓示 ― パート1

オックスフォード大学の大講堂には、判決を待つような空気が漂っていた。

天井からはクリスタルのシャンデリアが金色の光を放ち、磨かれたオーク材の壁面を照らしていた。
だが、すでに会場はざわめいていた――
何か壮大で、物議を醸すものがこれから語られると、誰もが感じていたのだ。

レン「コンパス」ウェイランドは、ベルベットのカーテンの裏に立ち、展示ケースの中のアーティファクトを見つめていた。
キューブの磨かれたガラス面に、自分の姿がゆらりと映っている。

彼はゆっくりと息を吐いた。

――ついにこの時が来た。

何ヶ月にも及ぶ発掘、翻訳、古代の記号に囲まれた不眠の夜。
認められる夢と、間違っていたかもしれないという恐れ。
すべてが、この一瞬のために積み重ねられてきた。

たった十分間のプレゼンテーション。
だが、その前には世界最高峰の考古学者、歴史学者、懐疑主義者たちが集っていた。

カーテンの向こうでは、蜂の群れのようなざわめきが広がっていた。
会場は満席。立ち見も出ている。
メディア関係者、学者、政府の監視者、そして一部のベンチャー投資家までもが、
「世紀の発見」と噂されるこの発表を聞くために詰めかけていた。

レンは横目で視線を向けた。

最前列の近くに、彼のチームが緊張した面持ちで座っていた。
スフィンクスは背筋を伸ばし、膝の上に杖を置いたまま、無表情だが瞳は熱を帯びていた。
リベットはイヤー・コムユニットをいじりながら、内頬を噛んでいた。
エコーはステージにカメラを向け、狙撃手のように静かに構えている。
ドックは両手を組んだまま、無言で虚空を見つめていた。

言葉は不要だった。
誰もが、この場の重みを知っていた。

「ウェイランド教授。」

アシスタントが小声で呼びかけ、ステージを指さした。

レンは一歩を踏み出した。

登壇すると、礼儀程度の拍手が静かに広がった。
それは彼の実績に対するものであり、まだ彼の発する“内容”に対するものではなかった。

彼の足取りは、抑制されたものだった。
まるで、自分が巨人たちの前に立つ詐称者ではないと信じ込ませるかのように。

背後の巨大なスクリーンが点灯した。
キューブの鮮明な高解像度画像が映し出される。
銀灰色で、風化したような表面。鋭く異質なエッジ。
肉眼でもかすかに見える彫刻が施されている。

レンは両手を演台の上に置いた。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます。」

彼の声は胸の重みにもかかわらず、安定していた。

「私の名前はレン・ウェイランド。
“コンパス”という名でも知られています。
この十五年間、私は歴史の中に収まりきらない古代の異物、遺跡、神話を研究してきました。」

彼がクリックすると、画像がズームインした。
キューブの表面に刻まれたパターン――血管、あるいは回路のような線が、中心のシンボルに向かって収束している。

「これは――ただの遺物ではありません。」

レンの声は低く、はっきりと響いた。

「これは、“メッセージ”です。
我々の知るいかなる文明からも来ていない。」

新たなスライドが現れた。
二つの古代文字――並列に表示された。

「一つの面にはシュメール・アッカド語の楔形文字。
もう一つには古代エジプトの象形文字。
同時代に存在はしていましたが、地理的にも文化的にも接点はなかった。
同じ物に、両方の文字が刻まれているなど…前例がありません。」

会場の空気が変わった。
観客が前のめりになる。

レンは、キューブの刻印を脳のイメージに重ねた合成画像を示した。

「中心にあるこのシンボルは、様々な形で遺物の中に繰り返し現れています。
それは、人間の脳と、何か有機的なもの――菌糸のような構造が絡み合っている。」

数名が顔を見合わせ、ささやきが広がる。

「これは、概念モデルの一種だと考えています。
思考のネットワーク、あるいは意識。
個人に属するものではなく――共有される、古代の“意識”です。」

彼は一呼吸置いた。

「さらに注目すべき点として、
楔形文字には“アブズ(深淵)”の語、
象形文字には“タ・ネチェル(神々の地)”と記されていました。
どちらの文化も、門、禁断の知識、人類以前に存在した存在について語っています。
そしてこの遺物は、そうした神話が単なる空想ではなかった、
――その“物的証拠”である可能性があるのです。」

会場の空気が重くなった。

――うまくいっている。

レンはそれを感じ取った。
懐疑が、驚きに変わる瞬間。

そのときだった。

「それって…アトランティスのことですか?」

会場後方から、若い声が響いた。
無邪気で、遠慮のない質問。

その名が落ちた瞬間、静かな水面に石を投げ込んだように空気が波立った。

レンの胃がきしんだ。
スフィンクスが眉をしかめたのが見えた。

「私は、そう断言しているわけではありません。」

レンは慎重に声を抑えて答えた。

「私たちは、古代文明同士の接触、あるいは連続性を示す証拠を発見したというだけです。
従来の歴史観を超える何かが、そこに存在していた可能性がある。」

だが、遅かった。

“アトランティス”という言葉は、すでに会場の空気を支配していた。

そしてそれは、ある人物を引き寄せた。

――第五列の中央。

痩せた長身の男が、暗いスーツ姿で立ち上がる。

レンはすぐに彼を認識した。

マイケル・リヴァーズ教授。

詐欺、虚構、願望的思考を論破して名を馳せた男。
たった一つのオピニオン記事で、何人もの研究者のキャリアを終わらせてきた。

「必要悪」と呼ぶ者もいれば、
「肩書き付きの破壊者」と呼ぶ者もいた。

沈黙の中、彼はゆっくりと通路を進み、ステージへと歩み寄った。

「ウェイランド氏。」

彼の声は、紙やすりのように乾いていた。

「よろしいか?」

レンはためらった。
キューブは、ベルベットをかけた台座の上に置かれていた。
リヴァーズは、二度は問わなかった。

レンは保護ケースの留め具を外し、
手間取りながらもキューブを持ち上げた。
ほんの一瞬、必要以上にそれを握っていた――
そして、手渡した。

リヴァーズは、まるで聖杯でも手にしたかのような大げさな仕草で、それを掲げた。

「見事な工芸品ですね。」

彼は、まるで誠実そうに言った。

「素晴らしい創作物。良い風化加工です。」

そして、頭上に高く掲げると、

「でも正直に言いましょう。これは――現代の偽造品です。」

笑いが起こった。
最初はぎこちなかったが、すぐに強まっていった。

レンは凍りついたままだった。

リヴァーズは、捕食者のように笑った。

「これが古代のものだと思いたい? それは結構。だが、現実を見ましょう。
――現代のレーザー彫刻ですよ、皆さん。
この完璧なエッジを見てください。
“菌糸の脳”?グラフィックデザインの一種ですよ。
現代神経学とポップサイエンスの象徴を引っ張ってきただけだ。」

笑いが強まる。
一部では拍手も起こった。

スフィンクスは無言で歯を食いしばっていた。
リベットは席から飛び出しそうな勢いだった。
ドックは目を閉じた。

リヴァーズは講義室を歩き回りながら、皮肉を続ける。

「そして、“深淵”や“神々の地”への言及もお約束。
どうせなら、アトランティスのスライドを出して、クジラの鳴き声でも流せばいい。」

彼はキューブを手のひらに落とした。
鈍い音が響く。

「こういうの、何度も見てきたんです。ヴォイニッチ手稿。ドロパ石。
そして今度は“ウェイランド・キューブ”。
大衆は食いつきますよ――でも我々科学者には、幻想に迎合しない責任がある。」

レンは何か言おうとしたが、喉が渇いて声が出なかった。

「私はそんなことは――」

「アトランティス? もちろんあなたは言ってませんよ。」

リヴァーズが言葉を被せた。

「聴衆が勝手に想像するよう、仕組んだだけです。
巧妙ですね。だが――軽率です。」

シャッター音が鳴り響く。

レンは演台に戻った。
手が震えていた。

彼はチームを見た。

リベットが目を合わせた。
「何か言え」と、無言で訴えていた。

だが、何も出てこなかった。

空虚だった。
燃え尽きていた。

そして――
その瞬間、会場の空気は一変した。

期待から、嘲笑へ。

レン・ウェイランドは、無言のまま、ステージを後にした。

[2:2] 第二章:啓示 ― パート2

重厚なオーク材の扉が閉まる音が、胸の奥まで響いた。

外は誰もいなかった。
知らぬ間に夜が訪れ、オックスフォードの古い石畳は、雨上がりの湿り気を帯びて光っていた。

レン「コンパス」ウェイランドは、階段を何の考えもなく降りていた。
身体は自動操縦のように動いていた。
冷たい空気が顔を刺したが、それがもたらすのは明晰さではなかった。
ただ――自分の人生の成果が、数百人の前で崩れ落ちたという、麻痺した現実感だけだった。

母の声が脳裏に浮かぶ。
優しく、安心感のある声で、古代都市や失われた知識の物語を読み聞かせてくれた。

「掘り起こすものには気をつけなさい」
彼女はよくそう言った。
「埋もれている真実には、それなりの理由があるのよ」

芝生の端にあるベンチまで歩き、彼は重く腰を下ろした。

しばらくの間、ただ濡れた草を見つめていた。
握った拳には白く血の気が失せていた。

キューブ――あのアーティファクトは、まだステージの上にあるはずだった。
今頃は誰かの手から手へと渡され、笑われ、否定されているだろう。

発見したときは、違っていた。
神聖だった。
危険ですらあった。

――それが今では?

今では、#ジョークのネタ になっている。

彼は目を閉じた。

――そのとき、足音が聞こえた。

視線は上げなかった。

「コンパス・ウェイランドさん?」

落ち着いた女性の声。

彼はゆっくりと顔を上げた。

女性は数歩先に立っていた。
上階の窓から漏れる金色の光が、彼女の姿を半分だけ照らしている。

背は高く、三十代半ば。
シンプルなグレーのスーツは、オックスフォードの影と溶け合うようだった。

鋭く、知的な黒い瞳が、迷いなく彼の目をとらえた。

「取材ではありません」

彼女は言った。

「からかうためでもないわ」

レンは黙ったまま、応じなかった。

「私は、あなたを信じています」

彼の眉がひそんだ。

「なぜ?」

彼女は答える代わりに、一歩前へ進み、スマートフォンを取り出した。
画面を数回タップし、それを彼に差し出す。

レンは無意識のままそれを受け取った。

ディスプレイに映し出されたのは――

球体。

キューブよりもわずかに大きく、ベルベットの布の上に置かれていた。
同じ、あり得ない金属。
同じく、刻まれた線。

そして中央には――
菌糸に包まれた脳のシンボル。
まぎれもなく、あれと同じだった。

息が止まる。

「本物だ…」

彼がささやいた。

「数年前に見つけました」

彼女は言った。

「南米の山脈の地下にある部屋で。
言語の組み合わせは異なりますが、建築も、合金も、構造も、メッセージも――すべて同じです」

レンは彼女を見上げた。

「“私たち”って、誰だ?」

彼女はわずかに微笑んだ。

「スカイラー・モントゴメリー。
スカイと呼んでください。
民間の研究プロジェクトを主宰しています」

彼は瞬きをした。

「プロジェクト?」

「簡単に言えば――
政府が隠したがり、学会が扱いきれない“真実”を収集している組織です」

彼女は一拍置いて、続けた。

「そして、世界にはまだ他の“ピース”が存在すると、私たちは信じています。
あなたが、その全体像に一歩近づけてくれた」

レンはゆっくりと立ち上がった。
鼓動が速くなる。

「なぜ、俺のところへ?」

「ステージで、あなたは引かなかったから」

彼女は建物の方を軽く顎で示した。

「嘲笑されても、あなたは真実を語った」

彼は目を伏せた。

「勇気があったとは…思えなかった」

「でも、あなたにはあった」

彼女は、そう静かに言った。

中庭に風が吹き、木々を揺らす音だけが沈黙を破っていた。

やがてレンが口を開いた。

「それだけの物を持ってるなら、なぜ公表しない?」

スカイの表情がわずかに引き締まった。

「世界は、まだ受け入れる準備ができていない。
――そして、あんな形では尚更よ」

彼女は講堂の建物に視線を向けた。

「あなたは、ほんの“一片”を見せただけで、あの有様だった。
二つ目を出せば、どうなると思う?」

彼女はさらに一歩近づいた。

「証明するために戦う必要はないの。
まず、私たち自身が理解すること――それが先よ」

レンは、彼女の顔をじっと見つめた。
その声には傲慢さも、上から目線もなかった。
あったのは、静かな確信。

そして、切迫感。

「まだ、他にもあると思ってるんだな」

「思ってるんじゃない。
――確信してるの」

「これまでに三つの手がかりを追ったけど、いずれも間に合わなかった。
あるいは、あまりに巧妙に隠されていた。
でも今回、あなたの発見で――
ようやく“パターン”が見え始めたの」

彼女はためらい、そして付け加えた。

「でも、私一人じゃ無理よ」

レンは、画面に映る球体を見つめたまま動かなかった。
それは、まるで自らの存在を主張するように脈打っているように見えた。

終わってなどいなかった。

むしろ、これからが始まりだった。

「一緒にやろうってわけか」

彼はゆっくりと言った。

「始めたことを――一緒に終わらせたいの」

彼女は訂正した。

レンは苦笑した。

「わかってると思うけど、学会は俺を完全に潰したぞ」

スカイは頷いた。

「なら――彼らの承認を掘り返すのは、もうやめましょう」

彼は――ようやく微笑んだ。
ほんの少しだが、それは確かに“火”だった。

「……いいだろう。聞こうじゃないか」

スカイは振り返った。

「ついてきて」

彼らは並んで夜の構内を歩いた。
アーチや回廊、アメリカという国が生まれるよりも前から存在する石造りの道を静かに進んでいく。

彼女の歩調は穏やかだが、進む方向には迷いがなかった。

やがて門の先に停められた、黒い車へとたどり着いた。

スカイは扉を開け、レンを中へ促した。

中には柔らかな光と、ミニマルで未来的なインテリア。
エンジン音はほとんど聞こえなかった。

中央のモニターには、青く光る地図が表示されていた。

中心には――大西洋の中央、地表には存在しない座標。

「アーティファクトの刻印から得た座標よ」

スカイが言った。

「あなたのキューブと、私たちの球体。
両方に共通する“方向”が示されていたの。
――まるで、古代の“コンパス”のようにね」

レンは身を乗り出す。

「嘘だろ…」

「本当よ」

彼女は応えた。

「そこは地図にも載っていない場所。
――なぜなら、それは“地上”には存在しない。
“下”にあるの」

「何の下だよ…?」

彼は息を呑んで尋ねた。

彼女の視線が静かに彼を見た。

「――すべての下よ」

レンは一度、吹き出すように笑った。
困惑と興奮が入り混じった、深い呼吸だった。

「冗談じゃないんだな?」

「心臓発作のようにね」

彼女は静かに言った。

レンは座席にもたれたまま、地図を見つめた。
思考が疾走していた。

恥辱。屈辱。痛み。
それらはまだ胸に残っていた。

だが今、その隣に別のものがあった。

――目的。

「チームが必要だ」

彼は言った。

「用意してあるわ」

彼女が即答した。

「それと…」

彼は向き直る。

「まさか、金持ちのコレクターが潜水艇をおもちゃにしてるってんじゃないだろうな」

スカイの口元がわずかに動いた。
それは――皮肉混じりの微笑だった。

「私は収集になど興味はない。
――世界を“変える”ことに興味があるのよ」

レンはその言葉を黙って受け止めた。

心の奥底では、もう気づいていた。

世界はすでに、変わり始めている。

――彼らが、その最初の目撃者だった。

[3:1] 第三章:二つで一つ ― パート1

ロンドン北部の森を抜ける道は、まるで沈黙を編んだリボンのように、くねりながら続いていた。

黒のセダンが砂利道を静かに滑っていく。
エンジン音は囁きほどもなく、周囲の森は不気味なほど静かだった。

古い木々が道の両脇に密集し、枝は頭上で絡まりあって天蓋のようになっている。
ヘッドライトに影が揺れるが、生き物の気配は一切ない。

助手席では、レン「コンパス」ウェイランドが前方を睨みながら目を細めていた。

標識もない。門もない。監視カメラも見当たらない。
ただ、森が道を丸ごと飲み込んでいく。

「この土地、全部あなたの?」

彼は言った。

「土地なら、そうね」

運転席のスカイラー「スカイ」モントゴメリーが答えた。

「でも、“真実”に関しては、こんなに古いものを誰かが所有できるとは思っていないわ」

その口調は自然体で、謝罪も誇示もなかった。
――まるで、数世紀と秘密の重みさえ、彼女の道具であるかのようだった。

レンは黙ったまま、思考の中にいた。
あの会議のこと。
嘲笑のこと。
そして、まるで生きているかのようにバッグの中で熱を放つキューブのことを。

アトランティスは、ただの“幕”に過ぎなかった――
スカイは、彼を信じると言い、証拠を見せた。

二つ目の遺物。
――双子のような存在。

だがなぜ、今? なぜ、自分なのか?

彼らは、蔦に覆われたアーチの下をくぐり抜け、王のために建てられたような邸宅の前にたどり着いた。

高くそびえる石造りの壁。
割れ、風化し、無数の蔦が隙間を這っている――
まるで、時間そのものがこの場所を取り戻そうとしているかのように。

だが、そこには腐敗も、崩壊もなかった。

ただ、静寂だけがあった。

車が停止すると、スカイは何の躊躇もなくドアを開けた。

「来て」

すでに歩き出していた。

レンも後に続いた。

この空気はどこか違った――
濃密で、呼吸すら抑えられるような感覚。

邸内は薄暗く、ひんやりとしていた。
大理石の床、重厚な梁、虚ろな眼差しを持つ肖像画。

だが、スカイが向かったのは邸宅の奥ではなかった。

彼女は下へ向かった。

石の階段を下り、
ワインセラーを通り抜け、
生体認証付きの強化スチールの扉を抜けて。

――シューという音と共に、扉が開いた。

そして、世界が変わった。

古びた屋敷の地下に広がっていたのは――

この時代に属さない、
科学の大聖堂。

壁には柔らかな白い光が脈打ち、
作業台には読み取りデータが点滅し、
端末はリアルタイムで情報を処理していた。

空気清浄機が低く唸り、室内を乾燥し、清潔に、そして無菌に保っていた。

レンは足を止めた。

「これは研究室じゃない。
――司令室だ」

「今は、ほとんど同じよ」

スカイは肩をすくめて言った。

レンはゆっくりとその空間を見渡した。

これは単なる“財力”ではなかった。
――“備え”だ。

「で…」

彼は慎重に問うた。

「実際、ここで何をしてる?」

スカイはちらりと彼を見て、
部屋の中央にある長いテーブルへと歩いていった。

スポットライトが、ベルベットの台の上にある何かを照らしていた。

「謎を解いているのよ」

彼女は言った。

「時間と、神話と、恐怖に埋もれたものたちを」

彼女が身を引くと、そこにあった。

――球体。

レンは息を呑んだ。

キューブと同じ材質。
同じ冷たい輝き。
同じ繊細な線が表面を這っている。

そして中央には、
あの忌まわしくも美しいシンボル。

――菌糸に包まれた脳。
マイセリウム。

彼の指がわずかに動いた。
触れたい。どうしても。

だが――手前で止めた。

「どこで見つけた?」

声は低く、目は逸らさずに尋ねた。

「別の探査よ」

スカイは答えた。

「別の大陸。
別の言語。
別の問い。
――でも、答えは全部ここへ向かっていた」

レンはゆっくりとバッグに手を入れ、キューブを取り出した。

その手は震えていた。恐怖ではない。

――“理解”の重みによる震えだった。

彼は、球体の隣にそっとそれを置いた。

二つの形。
二つの存在。
――時を越えて、同じ言語で語るもの。

そして――

キューブが振動した。

ほんのわずかに。

だが、それは骨の奥で感じられるほど確かだった。

球体が応えた。

浮かんだ。

――何の接続もなく。

ただ…宙に浮かんだ。

まるで、ずっとその時を待っていたかのように。

レンは一歩後ろへ下がった。

「あり得ない…」

彼はささやいた。

球体が回転を始めた。

中心から細い針が伸びる――
鋭く、わずかに光を放っている。

それは、揺れ、そして――

固定された。

――“指し示す”。

目覚めたかのように、それは自らの“目的”を思い出していた。

「コンパスよ」

スカイが息を呑むように言った。

「空間を“ナビゲート”するための装置。
単なる方角じゃない。三次元の“指向性”」

彼女はレンに視線を向けた。

「この二つは、本来ひとつでは機能しない。
互いを起動させるために存在していたのよ」

レンは、発光する線をじっと見つめた。

それは大地を、海を、石の壁すら貫いて――
遥か遠くへと向かっていた。

「その先が、どこか分かるのか?」

「まだ。でも、見当はあるわ」

彼は彼女を見た。

――そして、気づいた。

あのあだ名。

“コンパス”。

それは、もはや皮肉ではなかった。
――予言だった。

彼は手を伸ばし、球体に触れた。

それは、指先の動きに合わせて静かに回った。

だが、針は動かなかった。

固定されたまま、
揺るがなかった。

「この指す先に行かなきゃならない」

彼は静かに言った。

スカイは頷いた。

「チームも、船も、機材も――
全部、準備はできてる。
この瞬間を、待っていたのよ」

彼女は浮かぶ球体を見た。

「これで、道が開かれた」

レンは息を吐いた。

オックスフォードの笑い声は、まだ記憶に残っていた。

だが今では――
遠く、かすかなものだった。

呼ばれている。

何か古く、
何か確かなものに。

そして、たぶん――
何か、生きているものに。

[3:2] 第三章:二つで一つ ― パート2

球体は、完全な静寂の中に浮かんでいた。

その針は、壁を越え、距離を越え、地殻そのものを貫くかのように、揺らぐことなく一直線を指していた。

レン「コンパス」ウェイランドは、その前に立ち、両手を横に下ろしたまま、ゆっくりと呼吸していた。

アーティファクトに関して知っていたはずのすべてが、再び覆された瞬間だった。

「これが…行き先ってわけか」

彼はつぶやいた。

「“方向”。“目的地”。」

スカイラー「スカイ」モントゴメリーは、背後のスクリーンに映る座標の読み取りを見つめながら、腕を組んで頷いた。

「座標を三点測位中よ。もう少しで出るわ」

「どこに?」

「大西洋の中央あたり」

彼女はレンを見た。
その表情は読み取れなかった。

「――プラトンが“アトランティス”を置いたあたり」

レンは思わず笑いかけたが、それはただの吐息になった。

「やっぱり、そこか…」

「もう、笑い話じゃないわね」

スカイの声は静かだった。

レンは再び、青く光る球体を見つめた。

現実感がなかった。

こんなにも古く――
いや、異質でさえあるものが、
“どこへ行くべきか”を知っているなど。

「この球体…君のチームが見つけたって言ったけど、最初からこんな風だったのか?」

「眠ってたわ」

彼女は答えた。

「今までずっと。
放射線も、磁場も、音波も試した。反応はゼロ。
でも、あなたのキューブの写真を見たとき…
ピンときたの。
正しかったわ」

彼女は彼に一歩近づいた。

「この二つは、元々“セット”だった。
――鍵の左右。
今、私たちに必要なのは“扉”だけ」

レンは、胸の奥に冷たいものが流れ込むのを感じた。

それは恐怖ではなかった。

――重みだった。

あらゆる伝説、神話、囁かれてきた真実が、
もしかすると、この瞬間に繋がっていたという“重み”。

「アトランティスは…目的じゃなかったんだな」

「ええ」

スカイは頷いた。

「それはただの“幕”。
舞台装置よ。
――でも、その背後には」

彼女は光を放つ針を指差した。

「“本物”がある」

そのとき、低く電子音が鳴った。
最寄りのコンソールから。

座標、確定。

読み取りが青く点灯した。

緯度:31.7°N ― 経度:25.2°W
  深度:4000メートル
  ステータス:不明

レンはその数字を凝視した。

――大西洋。
――遠く、深く。

そこに島はない。
陸地もない。

「海面には…何もない」

「その通り」

スカイが言った。

「針が示しているものは、海面には存在しない。
――その“下”にあるのよ」

レンは息を吐いた。

「正気の沙汰じゃない…」

「歴史よ」

彼女は言った。

沈黙が落ちた。

その中で、彼は耳に海の音を感じていた。
圧力。重み。時間の塊のような静寂。

それでも――
針は、指し続けていた。

スカイは脇のコンソールに向かい、引き出しを開けた。

中にはいくつもの密封ケース。

ひとつを開くと、中には人工衛星からの地図。
別のケースには、小瓶に入ったサンプル――
密閉され、コード化されている。

もうひとつには、バイオ認証チップ。

すべてが、計画されていた。
彼女のすべてが「準備」を語っていた。

「最初から、仕込んでたな」

レンは目を細めて言った。

「いいえ」

スカイは言い直した。

「――待っていたの」

レンはためらった。

「なぜ、俺なんだ?」

「あなたは、立ち去らなかった。
皆に笑われても、あなたは“キューブ”を抱いてステージに立った」

彼女は首を傾げた。

「それに――見てしまったんでしょ。
あなたの目に出てる。
――すでに、門をくぐった者の目だわ」

レンは何も言わなかった。

彼の思考は――恐怖ではなく、“記憶”に包まれていた。

あの墓所。
冷たい石。
古代の記号。
幼い頃、母が語った「埋もれた真実に近づくときは慎重に」との言葉。

「君は…本当に、あそこに何かあると思ってるのか?」

「信じてる。じゃない。
――“知ってる”のよ」

彼女はメインコンソールを操作し、デジタルフォルダを開いた。

画面には連続する画像が映し出される。
海底の構造物、異常値、磁場の異変、途絶した信号。
それぞれのタイムスタンプには、数十年の開きがある。

「すべて、同じ海域。
――何かがある。
けれど世界はそれを、見て見ぬふりしてる」

「あるいは、“隠している”」

レンが付け加えた。

スカイは彼に向き直り、微笑とも挑発ともつかない表情で言った。

「問題かしら?」

「“もし、それが攻撃してきたら”って思うと…な」

言葉が止まった。

二人の間に沈黙が落ちた。

やがてスカイが口を開いた。

「一緒に来て欲しいの、コンパス」

名前を呼ぶ彼女の声は、柔らかかった。

「あなたにこの航路を導いて欲しい。
“本物”の一部になって欲しいの」

レンは彼女を見た。

そこにあったのは――敬意か、信頼か。

それとも、もっと別の何か。

「……まだ何か、隠してるな」

「命を守るために必要なことは、ね」

「安心…とは言い難いな」

レンが眉を上げると、スカイは微笑んで球体へと視線を移した。

「よく見て。ちゃんと見て」

レンは球体に目を戻した。

そこには、もはや“装置”ではなかった。
“兵器”でも、“謎”ですらなかった。

――それは、“召喚”だった。

遥かな時を越え、誰かが信号を放ち、
バラバラだった断片が、いま再びひとつに集っていた。

それは、彼らを呼んでいた。

故郷の奥底へ。
あるいは、故郷よりも古いものの“口”へ。

「……行こう」

レンは静かに言った。

スカイはすぐには答えなかった。

ただ、一度だけ――力強く頷いた。

「48時間後に出発するわ。
チームも、船も、すでに準備はできてる。
あなたには時間がある。仲間を連れてきて」

レンは一瞬ためらった。

「俺のチームか…」

「教授。医者。技師。観察者。
――誰かは、もう知ってる」

レンはじっと見つめた。

「そんなに前から…見てたのか?」

「ええ。
あなたに彼らが必要だって、分かってたから」

スカイは階段の上で立ち止まり、振り返った。

「最後に一つだけ」

「なんだ?」

「一度“そこ”に降りたら――もう戻れないわよ」

そう言い残して、彼女は消えた。

その足音は階段の上へと遠ざかっていった。

レンは一人、青く輝く球体の光に包まれて立っていた。

その針は、いまだに指し続けていた。
どこまでも、変わらずに。

未知なる場所へ。

彼の脳裏に浮かんだのは――

リベットの笑い声。
スフィンクスの警告。
エコーの静かなまなざし。
ドックの揺るがぬ手。

――みんなが必要になる。

胸に落ちたのは、過去の重みではなかった。

――これから訪れるものの、予兆だった。

レンはキューブを拾い上げ、そっと胸に抱いた。

そして、研究室の灯りを落とした。

闇が広がる。

だが、コンパスはまだ光っていた。

[4:1] 第四章:はじめまして ― パート1

ジェット機は、夕暮れの空を切り裂くようにして飛んでいた。
眼下には鋼のような青さの大西洋が広がり、
太陽の光がその水面を、まるで溶けたガラスのようにきらめかせていた。

機内は静寂に包まれていた。
まるで深海の圧力のような重みが、空間全体を支配していた。

二つのチームが、機内の向かい合ったシートに並んで座っている。
その間に流れるのは――言葉ではなく、見えない問いの数々だった。

キャビン中央には、強化ケースがカーボンファイバー製のテーブルに置かれていた。

中には――キューブ。
そして、スフィア。

動いてはいなかった。
だが、
レン「コンパス」ウェイランド には分かった。

――あれは、待っている。

ときおり、ケースがわずかに震えることがあった。
まるで、それらが呼吸しているかのように。

視線が自然と引き寄せられる。

《もう、引き返せない》

キャビンの奥では、 スカイラー「スカイ」モントゴメリー がタブレットを手に、マップと暗号化された情報を確認していた。

レンは彼女の正面に座り、静かに彼女を見つめていた。

やがて、彼は立ち上がり、落ち着いた笑みを浮かべて口を開いた。

「これから、我々は寝ても覚めても共に過ごすことになる。
――だから、そろそろ自己紹介をしよう。
信頼こそ、我々が持ちうる最高の“装備”だからな」

スカイも立ち上がり、頷いた。

「では、私から」

彼女の声は穏やかだが、確かな響きを持ってキャビンに届いた。

「スカイ・モントゴメリー。名前はすでにご存じでしょう。
このミッションの資金は私が出しています。
理由はひとつ――
この規模の発見は、人々のためになるべき。
政治の道具でも、戦争の火種でもあってはならないからです」

その言葉は揺るがぬ信念を湛えていたが、
その瞳の奥には、言葉にされなかった“何か”が揺れていた。

彼女の右手に立つ男は、まるで“影”から切り出されたようだった。

高身長。痩躯。
戦術的な漆黒の装備に身を包み、
顔からは感情が読み取れない。

鷹のような眼差し。

一度だけ、静かに頷いた。

「コードネーム: シェイド
情報収集、偵察、記憶再構成、緊急対応――
任務はただひとつ。
『全員を生きて帰すこと』」

その声は鋭く、無機質だった。

笑わず、座らず、ただドアと窓を睨み続けていた。

レンは息をのんだ。

《あれは、絶対に眠らない》

次に立ち上がったのは――山のような男だった。

筋骨隆々。
無言の圧力が、彼の周囲に漂っていた。

サンダー

その声は、遠雷のように低く響いた。

「元・軍事請負業者。任務は――個人警護」

彼はちらりとスカイを見た。

「彼女に命を救われた。だから今、彼女を守る。
……君たちのこともな」

それは誓いだった。
短く、揺るがず、言葉の奥に“火”があった。

レンはスカイのわずかな頷きを見逃さなかった。
それは感謝ではなかった。

――“炎の中で鍛えられた忠誠”だった。

空気がふと変わった。

細身で、髪はぼさぼさ、笑顔が絶えない若者が、勢いよく手を振った。

「やあ! ピクセル って呼んで。
ハッカー、AIクラフター、暗号破り、そして街中の探検家――
ってことは、つまりビルから飛び降りても無事ってこと!」

キャビンに笑いが走る。

彼のエネルギーは、場の緊張を吹き飛ばすようだった。

「暗号?解くよ。
古代語、衛星通信、宇宙人の技術でも――
何でもかかってこい!」

彼は スフィンクス にウィンクを飛ばした。

「気を悪くしないでね、教授。
世界の終わりの真相、どっちが早く解明できるか、勝負だ!」

スフィンクスは眉をひそめたが、口元は楽しげだった。

「喜んでお受けしよう、若者よ。
最高のアルゴリズムと最高の考古学者、どちらが勝つか――試してみたまえ」

さらに笑いが広がる。
シェイドの頬筋でさえ、わずかに緩んだ。

ピクセルはキャビンの後方にくるりと回り、芝居がかったお辞儀をした。

「ちなみに、パルクールもやってるからね。
誰か逃げ出しても、スーツなしで追いついてみせるよ」

彼は リベット に向かってウインクを投げた。
彼女は口元を吊り上げ、にやりと笑った。

最後に立ったのは、氷でできたような女性だった。

白銀のショートカット。
完璧に整えられた制服。
その動作は刃物のように正確だった。

「コードネーム: マンバ
遺伝学者、軍医。
任務は――生体サンプルの収集、進化的異常の分析、人類の生理的脅威への対応」

彼女の視線が、キャビン全体を鋭くなぞった。

「この任務では、“常識外”の判断が必要になるかもしれない。
……私は、それを受け入れている」

一気に温度が下がったような感覚。

誰も冗談を返さなかった。

レンの腹に冷たいものが落ちる。

彼女の声には、“覚悟”があった。
だが――“慈悲”はなかった。

彼は ドック と目を合わせた。
彼女の発言を黙って見つめていた。

――どちらも医師。
だが、思想は対極にあった。

マンバは静かに席に戻った。
まるで報告書を読み上げた後のように、余韻も残さず。

スカイは再び前へ出て、レンに視線を向けた。

「これが私のチーム。
有能で、忠誠心があり――そして少しばかり演技派ね」

ピクセルが指を二本立てて敬礼した。

「任務テンション、公式に上昇中!」

レンはわずかに笑い、前に一歩出た。

――今度は、こちらの番だ。

[4:2] 第四章:はじめまして ― パート2

レンは深く息を吸い、前へと一歩出た。

レン・ウェイランド
“コンパス”って呼ばれてる。――今では、名前の重みも受け入れてる」

その言葉には、かつての皮肉ではなく、今の確信が宿っていた。

「現地戦略家。古代文化の研究者。
ちょっと無鉄砲で、ちょっと執着が強すぎる。
でも――“失われたもの”を見つける術は知ってる」

彼はゆっくりと後ろを振り向き、仲間たちを指し示した。

「そして、こいつらが――
砂嵐、洞窟崩落、そして“殺意を持った自販機”を共にくぐり抜けてきた、俺のチームだ」

キャビンに乾いた笑いが広がる。

最初に一歩前へ出たのは、 スフィンクス だった。

ぴしっとしたスーツ。丸眼鏡。
年齢の刻みは目元に現れていたが、その瞳は今も鋭く澄んでいた。

スフィンクス と呼ばれている。
古代言語、比較神話、失われた文献の教授をしている。
パズルが好きでね――特に、五千年の埃に埋もれたやつが好みだ」

彼は ピクセル に向かって、にやりと頷いた。

「君がどこまで食い下がれるか、楽しみにしているよ」

ピクセルが満面の笑みを浮かべる。

「最初の碑文を解読するのは、どっちか勝負だな!」

次に立ち上がったのは、無言で装備を整えた男だった。

センサーやマイクロ回路が仕込まれたスーツ。
静かで、細身で、観察力の塊。

エコー
通信、信号工学、解析。
送る、聞く、解読するものは――全部、俺の担当だ」

彼は ピクセル の携帯サーバーユニットを指先で示しながら言った。

「頼むから、俺の周波数バンドは壊すなよ、天才さん」

「お願いされれば、考えとくよ」

ピクセルがウインクする。

次に、機械音と共に一歩踏み出したのは―― リベット だった。

パワードスーツを着込んだ少女は、金属の掌を胸に叩きつけて敬礼した。

リベット
エンジニア、メカニック、パイロット。
壊れたものは直すし、壊れてないものは――より良くするために壊すかも」

この一言に、無口だった サンダー が声を出して笑った。

リベットは彼に向かって、片目を閉じてみせる。

「安心して、大男。しっかり作られたものは好きよ」

サンダーは腕を組んだまま、静かに頷いた。

空気が柔らかくなっていく。

――いい兆しだった。

最後に一歩前に出たのは、細身で、慎重な手の動きと、どこか疲れた目をした男だった。

ドック

彼は医療ケースのストラップを直し、控えめに手を挙げた。

ドック
フィールドメディック、生物学者。
君たちが血を流せば、俺が止める。
何かに血を流されたら、意識を失う前に、それが毒かどうかを調べる」

彼はちらりと マンバ に目を向けた。

「向こうにも、生命の記録を取る人間がいるみたいだね」

ほんの一瞬、 マンバ の表情が揺れた。

それは――尊重。かもしれない。

言葉は交わさずとも、
彼と彼女の間には、何かが通った。

――彼らは、違う言語を話す者同士。

だが、どちらも“科学者”だった。

すべての自己紹介が終わったとき、機内に静けさが降りた。

スカイ が再び中央に歩み出た。

窓の外では、夕陽が沈みかけ、
海面を溶けた金のように染めていた。

彼女は、十人の仲間を見渡した。
地図のない場所へと向かう、未知の航路に乗った乗組員たち。

「なぜ私たちがここにいるのか――
もう分かってるはず」

その声は大きくなかったが、確かに届いた。

「これは神話じゃない。
伝説でもない。
“深淵”から呼ばれているのは、現実そのものよ」

彼女は、中央のケース――キューブとスフィアが収められたそれに視線を向けた。

「これまで、私たちは別々の道を歩いてきた。
兵士、ハッカー、歴史学者、医者――
それぞれの部屋に閉じこもったように。

でも今――
私たちはひとつの“クルー”。
ひとつの“チーム”なの」

そして、彼女の瞳が レン の目をとらえた。

「――この任務を成し遂げられるのは、私たちしかいないと、私は信じている」

機内はしばし静寂に包まれた。

……が、次の瞬間。

ピクセル が身を乗り出し、 エコー に囁いた。
話題はどうやら潜水艇の通信プロトコルらしい。

リベット はすでに工具箱に手を突っ込み、 サンダー と技術トークを始めていた。
サンダーが、珍しく楽しそうに頷いている。

スフィンクス マンバ はキャビンの両端に立ち、
無言のまま、それぞれの視点で全体を観察していた。

シェイド は、すでに操縦室へと移動していた――
静かに、気配も消して。

レン は、自分の仲間たちを見た。
スカイ の仲間たちも。

そして、静かに口を開いた。

「全員で帰る。――一人も欠けずに。それが俺たちの“契約”だ」

リベット が振り返り、にやっと笑った。

「死ぬつもりなんかないよ、ボス」

「なら、ずっとその調子でいてくれ」

レン が頷いた。

窓の外――
闇に沈む大西洋が、果てしなく広がっていた。

その下に、何かが――待っていた。

そして、スフィアの針は、揺らぐことなく“そこ”を指し続けていた。

[5:1] 第五章:アトランティスの逆説 ― パート1

窓の外、大西洋が金色に染まっていた。
沈みゆく太陽が雲を真鍮のように輝かせ、
その光を、はるか下の海が炎のように映し返していた。

機内には言葉がなかった。

普段なら何かしら呟いている ピクセル でさえ、口を閉じていた。

誰もが、それぞれの思考に沈み、
窓の外か、自分自身の映ったガラスを見つめていた。

――待機。

レン「コンパス」ウェイランド は窓際に立ち、
手を軽く湾曲した窓に添えていた。

冷気が、皮膚を静かに刺してくる。

この下には、
数千メートルに及ぶ水。

――そのさらに奥には、
秘密が眠っている。

彼は、思わず声に出していた。

「アトランティス……」

吐息がガラスを曇らせる。

「何千年も、僕たちはそれを“文字通り”に受け取ってきた。
海に呑まれた都市。
誇りと罰の神話。
アトランティス――滅びゆく理想郷……」

背後で、 スカイラー「スカイ」モントゴメリー がわずかに動いた。

タブレットを静かに脇に置き、
彼の隣へと歩み寄る。

言葉はなかった。

しばし、彼女も同じように海を見つめていた。
その表情は、読み取れなかった。

やがて、囁くように言った。
その声は、秘密を打ち明けるように低く静かだった。

「でも、もし――それが“比喩”じゃなかったら?」

レンは瞬きをした。

「……アトランティスが?」

「違うわ。“アトラス”」

彼女の視線は、海の地平線から離れなかった。

「アトラスが、人や神じゃなく――
“地質的なもの”だったとしたら?」

レンはわずかに身体を向けた。
興味が芽吹いていた。

「どういう意味だ?」

スカイの声は、さらに低くなった。

「アトラスは、“天を支えていた”とされてる。
でもね、構造地質学の観点では――
“地球”を支えているのは何かしら?」

レンの眉が寄る。

何かが、頭の中で繋がり始めていた。

「……玄武岩だ」

無意識のうちに答えていた。

「海洋地殻。
地球の外殻は、密度の高い玄武岩の基盤の上にある」

スカイはゆっくりと頷いた。

「その通り。
アトラスは“巨人”じゃない――
私たちの“足元の岩”だったのよ」

レンの瞳が見開かれた。

その仮説は、胸に“重たい真実”のように沈んでいく。

「……アトランティスも、沈んだ都市なんかじゃない。
“崩れた”んじゃない。
“隠された”んだ」

スカイの声は、まるで祈りのようだった。

「地殻の下の空洞。
時間と圧力によって密閉された空白。
海の重みで封じられた“地下の金庫”」

二人は、目を合わせた。

言葉にする必要はなかった。
その理解は、すでに互いの中にあった。

――“世界の下の世界”。

レンは勢いよくマップのコンソールへと向かう。

指がタッチスクリーンの上を飛ぶように動く。
海底の地形データが拡大されていく。

「……ここだ! 見てくれ!」

彼の指先が、海底に刻まれたかすかな“傷”で止まった。

「中央大西洋海嶺。
この範囲内に、“異常な裂け目”がある。
スフィアが示した座標と一致するんだ」

スカイが彼の肩越しに覗き込む。

「これは……“断層”じゃない。
地殻変動でもない」

彼女はデータを指で叩いた。
深度の表示が脈打つように光る。

「“トンネル”がある。
“空洞”がある。
何かが、ある」

レンは一歩下がり、呼吸を整えた。

「アトランティスは“遺跡”なんかじゃない。
それは“構造物”だ。
古代の――
発見されることを前提としていなかった、何か」

コンソールの光が、彼らの顔を青白く照らしていた。

窓の外では、太陽がほとんど姿を消していた。

海は、墨のように沈んでいく。

その下に――

答えがある。

あるいは、それ以外の“何か”が。

レンの思考は、過去へと引き戻されていた。

――母の声が脳裏に響く。

「追い求めるものには気をつけて。
レン、真実の中には、掘り起こされることを望まないものもあるのよ」

彼女は、警告してくれていた。

執着について。
掘りすぎることの危険について。

――だが、もう止まれなかった。

その炎は、胸の内であまりに強く燃えていた。

彼は拳を握る。

――もう、恐れない。
――もう、躊躇わない。

彼は、スカイの方へ向き直った。

彼女は見ていた。

彼の目の奥に――
揺るがぬ“決意”を。

「必ず見つける」

その声は静かだったが、岩のように重みがあった。

「たとえ――
地球の“背骨”を貫くことになっても」

スカイは口元をゆがめ、片側だけ笑みを浮かべた。

「それでこそ、“コンパス”ね」

二人は並んで立ったまま、
下に広がる暗くなった海を見つめていた。

そして――

その遥か下の、薄暮の水の底で――

“地球”は、開かれるのを待っていた。

[5:2] 第五章:アトランティスの逆説 ― パート2

機内の照明が静かに落とされた。

外の大西洋は、まるで墨を流した鏡のように、黒く沈黙していた。

その深淵の下で――
何か古代のものが、微かに“息をしていた”。

レン「コンパス」ウェイランド は、マップテーブルの前に立ち、
指先でデジタルのレイヤーを滑らせていた。

海底地形図は、眠れる巨人の皮膚をなぞる静脈のように、歪んで重なっていく。

「ここだ」

彼は低く呟いた。

「プレートの動きと合ってない。
断層じゃない……これは、“意図的”に作られてる」

スカイラー「スカイ」モントゴメリー が隣に立ち、
二人でその異常地形を見つめた。

それは、異様なまでに“まっすぐな”溝だった。

「スフィアの針が最後に指していた座標と一致してる」

スカイがディスプレイをタップする。

「これが何であれ――
“意図して埋められた”ものよ」

“空間”。
地殻の下に存在する“金庫”。

神話ではない。

――“機構”だ。

レンは、ほとんど無意識に囁いた。

「……扉」

彼は画面に顔を近づけた。

心臓が静かに、しかし確実に高鳴っていた。

「ずっと、“遺跡”を探していた。
でももしかしたら――
俺たちは“最初に開ける者”なのかもしれない」

背後では、他の隊員たちが黙って座っていた。
まどろんでいる者もいれば、ただ静かに周囲を見守る者もいた。

だが誰もが感じていた。

――その向こうに、“何か本物”がある。

スカイが口を開いた。
その声は低く、夜の静けさに溶けていく。

「彼らは……“私たちが来る”と分かってたと思う?」

「誰が?」

「スフィアとキューブを残した存在。
――それを造った者たち」

レンはしばし考えた。

「来てほしかったのかもな。
……あるいは、“警告”を残したのかもしれない」

再び窓の外を見る。

海は、かつての光を失っていた。

今はただ、黒く――
絶対的な石のように沈黙している。

「子どもの頃、母がよく寝物語をしてくれた」

その声は静かだったが、はっきりしていた。

「……優しい話じゃなかった。
古い話。
禁じられた知識、開けてはならない扉――
そして、語られずに終わる神話」

スカイは顔を向けた。

「――お母さんは、それを信じてたの?」

レンは頷いた。

「“真実には危険なものもある”。
“深く掘れば、地球はそれを覚えている”って」

彼は顎をわずかに引き締めた。

「母は、発掘現場で死んだ。
アナトリアの地で、地滑りに巻き込まれた。
“忘れられた言語”を探していた」

それ以上は語らなかった。

語る必要もなかった。

スカイは、コンソールにそっと手を置いた。

「……知らなかった」

レンは首を横に振った。

「たとえ知っていたとしても――
止まらなかったさ。
……彼女は俺に似てる」

そして、彼は顔を上げた。

そこにあるのは、もはや“迷い”ではなかった。

「――だから、俺も止まらない」

画面が震えるように微かに唸り、データが確定された。

深度推定:13,000メートル
  地震安定性:不確定

その下にあるのは――
“圧力”、
“闇”、
そして“解くべき謎”。

スカイの声は揺れなかった。

「なら――行きましょう。
……最深部まで」

レンは微笑んだ。
わずかに、だが確かに。

「俺たちはもう――落ち始めてる」

しばらくの間、機内全体が“息を呑んだ”。

そのとき――

スフィアのケースの中で、
光が瞬いた。

――脈動。

――静かに。

――青く。

エコー が顔を上げた。
ピクセル の指が、キーストロークの途中で止まった。

スフィアが、回った。

針が――

下を指していた。

[6:1] 第六章:沈黙の深淵 ― パート1

海は異様なまでに静かだった。
まるで溶けたガラスを流し込んだ鏡。
――沈みゆく、傷だらけの太陽を映している。

波ひとつない。
さざ波もない。
風すら、息をひそめていた。

だがその上――
調査船の甲板には、張り詰めた緊張が漂っていた。
まるで、今にも切れそうな一本のワイヤーのように。

レン「コンパス」ウェイランド は、船首の手すりに立ち、
スカイラー「スカイ」モントゴメリー と並んで、
静かに海を見下ろしていた。

無言のまま。

海面へと、潜水艇《アトラス》がゆっくりと降ろされていく。

鋼鉄のケーブルが軋み、クレーンの腕がきしむ。
流線型のカプセルは、涙滴のような形をしており、
無数のライトと計器が張り巡らされていた。

蒸気と水しぶきをあげながら、
それは重く、確実に海へと沈んでいった。

その背後で、遠征チーム全員が見守っていた。

地質学者、生物学者、技術者、ハッカー、兵士たち――
かつては敵対していた二つのチームが、
今は“神話よりも古い何か”に導かれて、一つになっていた。

「潜航開始。深度10メートル」

エコー の声が、船内コンソールの通信機から聞こえる。

スカイ は、手すりを強く握りしめ、
わずかに身を乗り出す。

風が彼女の髪をはためかせ、
それは旗の切れ端のように空に舞った。

レン は動かず、ただ集中し、耳を澄ましていた。

「……これがその瞬間」

スカイ は囁く。

「物語が現実になる瞬間よ」

レンは、わずかに頷いた。
だがその顎には緊張が走っていた。

その静かな表情の奥では、
思考が波のようにうねっていた。

胸の奥に、かすかな“音”が響いていた。
――それは恐怖ではない。
もっと古くて、原始的な“本能”の声だった。

《そこにいる。――何かが、待っている》

腰に下げたスリングの中には、 キューブ があった。

出発以来、一度も光ることはなかった。
だが、ここまで導いてくれたのは――あれだった。

しかも、“近く”ではない。
“正確に”この場所。

――それが、何よりも不気味だった。

「深度500メートル。視界不良。外部ライト作動。降下速度を維持」

エコー の声が再び聞こえる。

太陽が、水平線の下へと完全に沈んでいく。

闇が、空をすべて飲み込んだ。

船内を照らすのは、
制御パネルの青白い光と、
赤い安全灯だけだった。

「目標深度接近中。座標、ロック完了」

船上に、再び静寂が訪れる。

囁きも、足音もない。

聞こえるのは、船体に打ち寄せる
静かな波の音だけ。

スカイがふと顔を近づけ、
ほとんど聞き取れないほどの声で言った。

「……ねぇ、私たちって、最初からこれを“見つける”ように仕組まれてたと思う?」

「運命って意味か?」

「違うわ」

彼女は静かに首を振る。

「“設計”。――誰かの意志」

レンは思案する。
――何らかの知性が、この発見を“望んでいた”という可能性。

それは、風の冷たさ以上に、
体の芯を凍らせる考えだった。

「……もし、ここが“扉”なら」

彼はようやく答えた。

「俺たちは――
その先に何があるかを、まったく知らない」

スカイは、わずかに口元をほころばせた。

「でも――開けるのよ」

レンは後方を見た。

ピクセル は足を組んで座り、
タブレットに怒涛の速度で何かを打ち込んでいた。

リベット はドローンのセンサーをいじりながら、
サンダー の横でブツブツと文句を漏らしていた。

マンバ は無言のまま、
すべてを観察していた。
腕を組み、唇を固く結び、まるで裁判官のような眼差しで。

彼らは懐疑者じゃなかった。

――“信じる者”だった。

そして、“信じる者”は誰よりも深く潜る。

「深度800メートル。海底、視認」

エコー の声が届く。

「ソナーを展開」

レンはモニターに歩み寄る。

ぼやけた海底の画像が、ゆっくりと表示されていく。

平らな海底。
シルト(沈泥)に覆われた、何もない地面。

一拍。

そして――

「座標到達」

「でも……」

「……何もない」

古代の遺跡も、
異星の構造も、
不思議な開口部も――

そこには何一つなかった。

ただ――沈黙。

船上で、誰かの肩が下がった。

ピクセル が動きを止めた。

リベット が小さく舌打ちを漏らした。

スカイ は手すりを握りしめ、
その手の甲が白くなるほど力を込めた。

「……そんなはずない。確認して。何かあるはずよ」

エコー の声が戻ってきた。
その音は、どこか申し訳なさそうだった。

「再確認完了。座標一致。
構造物なし。異常反応なし」

長い沈黙。

レンの手が、腰のキューブへと伸びる。

それはまだ、温かかった。

揺らがず、確かに、“下”を指していた。

変わらずに。
迷わずに。

レンはキューブをしっかりと握りしめた。

そして、――

ただ、待った。

[6:2] 第六章:沈黙の深淵 ― パート2

「待って――」

エコー の声が通信機から届いた。
その声は、張りつめ、どこか不安げだった。

「……何か、おかしい」

一斉に視線がコンソールへ向けられる。

リベット がエコーの隣の画面を覗き込み、眉をひそめた。

「ソナーが不一致を拾ってる。
密度が想定と合わない。
――ここ、見て」

レン が前へ進み、画面を見つめた。

映像は、もう静止画ではなかった。

滑らかだったはずの海底の下に、
かすかな“影”が浮かび上がっていた。

楕円形――
そして、
堆積層ではあり得ない深さにまで及んでいた。

「……何これ?」

スカイ が問いかける。

「硬い岩層……その下に密度の落ち込み。
地殻の下に、空洞があるみたい」

リベット が静かに言う。

「埋まってるのか?」

レン の問いに、
エコー が頷くように答えた。

「……その通り。
もし何かがあるなら、
トン単位の堆積物で封じられてる。
――意図的に」

一瞬、全員が黙り込む。

あの海底の滑らかさは、
“偶然”ではあり得ない。

それは、誰かの手で“消された”のだ。

スカイ の表情が変わる。
驚きではなかった。

――確信だった。

「まだ、ここにある……
ただ、“もっと深く”」

レン の目が細められる。

ソナーが再調整され、画面の輪郭が変わっていく。

――何もなかったはずの場所に、“何か”が見えてきた。

「《アトラス》、そのままの位置を保持」

レン が指示を出す。

「全解像度でスキャンを実行する」

「了解」

潜水艇のセンサーがモードを切り替えた。

視界の代わりに、
振動が深海を描き出す。

ゆっくりと――
それは“姿”を現した。

地中に埋もれた巨大な曲線。
まるで、地面の下に眠る肋骨。

「……見える?」

スカイ が息を呑む。

「見える」

レン が答える。

「……これは、自然じゃない」

「でも建造物とも違う」

リベット が首をかしげた。

「地質にしては均質すぎる。
でも、石壁みたいに“積まれて”もいない」

「貝殻みたいなものかも」

エコー が呟く。

「あるいは“ハッチ”」

今や背後に立っていた ピクセル が言った。

「密封された入口。
……もしかして、圧力トリガー式」

その一言が、 レン に冷水のように突き刺さった。

「……最初から、“見つけられない”ように作られてたんだ」

「ってことは」

スカイ が続ける。

「“隠されるべきもの”だったのね」

遠雷が、かすかに空の彼方で鳴った。

微かに、だが確かに。

レン は海を見つめた。

海面は静かだ。
だがその下――
闇の奥では、
何かが渦巻いていた。

彼はチームの方へ振り返る。

「掘削が必要だ。
慎重に。ゆっくりと。
急ぎすぎれば、上層を不安定にする恐れがある」

「精密架台を組める」

リベット はすでに頭の中で計算していた。

「最低限の干渉で済む」

レン は頷く。

「ここを拠点にする。
――ここが核心だ」

誰も反対しなかった。
誰も躊躇わなかった。

彼らは、もう“戻らない”ところまで来ていた。

スカイ は彼を見つめた。
投資家としてでも、指揮官としてでもない。

もっと深く――
“発見の共犯者”として。

「……感じる?」

レン は静かに頷いた。

「これは“圧力”じゃない。
――“存在感”だ」

確かに、それは“在った”。

嵐の前のような空気の重さ。
目に見えない、だが静電気のように感じる緊張。

その瞬間、
キューブ が再び脈動した。

レン は留め具を外し、手に取る。

キューブが――震えていた。

その下で、
海はもう“沈黙”ではなかった。

沈黙は、
“形”を持っていた。

――そして、それは“聞いていた”。

[7:1] 第七章:深海の基地 ― パート1

海は不気味なほど静かだった。
まるで水そのものが、呼吸を止めているかのように。

その穏やかな水面の上で、
調査船は忙しなく動いていた。

油圧クレーンに吊るされたモジュールが揺れ、
信号灯が点滅し、
通信には短く鋭い命令が飛び交っていた。

そのはるか下、海底――
まったく新しい“世界”が築かれようとしていた。

「ドローン3、軸四を回転。……角度、2度ずれてる」

リベット の声が通信に割り込む。
彼女は中央コンソールに座り、
複数のライブ映像を鋭く見つめながら、
指先をピアニストのように滑らせていた。

機械アームが水中で完璧な動きを見せる。
溶接の閃光が暗い深海を照らし、
ケーブルが蛇のように正確に這い、収まっていく。

「ナイス操作、リベット」

近くの端末から、 ピクセル が笑いながら囁く。

「ボットに魂でも吹き込んでるのかって勢いだね」

「そっちの何人かより、よっぽど連携取れてるわよ」

リベット が即答する。

「――変な癖もないしね」

その上空、 サンダー の落ち着いた声が通信に入る。

「荷重プラットフォーム、整列完了。降下を開始する」

彼は持ち場から大型サブマージブル(潜水型大型機材)を遠隔操作し、
巨大な構造物パーツを精密に配置していく。

レン「コンパス」ウェイランド が観測デッキからそれを見つめる。

――まるで、開演直前のオーケストラのようだ。

だが彼らの“舞台”は、水深800メートルの海底。
――失敗すれば音程どころか命が消える。

これは普通のミッションではない。

これは――
神話の中に、楔を打ち込む作業だった。

一つずつ、構造が形を成していく。

まず骨組み。
次に補強された外殻。

続いて内部モジュール――
研究室、生活区画、制御ノード。

そして最後に、核心。

未知へと突き刺さる“槍”――
ドリルユニット。

「もうすぐ準備完了よ」

スカイラー「スカイ」モントゴメリー が隣で静かに言う。
両手を背後に組み、視線を前へと送る。

「これ全部――何年もの研究、何百万もの資金、
幻を追いかけ続けた日々――
すべて、一つの“穴”に集約されるなんてね」

レン はすぐには返答しなかった。

彼は、最後の支持リングが降ろされる様子を見つめていた。

「ときには、
沈黙を破らないと、“真実”は現れない」

彼が呟いたそのとき――
沈黙は、まだ終わっていなかった。

突如:

「C4モジュール、ドリフト発生!」

リベット の声が緊迫して走る。

「海流が東側へ変化中!」

モニターには、モジュールが回転しながら傾いていく様子が映る。

グリップアームが軌道を外れ、
スタビライザーとの衝突まで秒読みだった。

「抑える」

サンダー の低い声が冷静に響く。

「アンカーポッドを再誘導」

巨大なサブマージブルが唸りを上げ、
逆方向から漂流モジュールを支えにかかる。

それは、力任せではない。
“精密な舞”だった。

水が激しく渦を巻き、
鋼がきしむ。

「ロックして! 今!」

リベット が鋭く叫ぶ。

「……固定完了」

サンダー が確認する。

――皆が、一斉に息をついた。

「……まったく。
次またこんなの来たら、危険手当申請してやるわ」

リベット がぼやきながら操作を続ける。

「俺なら、カウントダウン付きで配信してるよ」

ピクセル が軽口を叩く。

「ようこそ、“ディープス:リアリティ・ショー”へ。近日配信予定!」

キャビンに小さな笑いが広がる。

レン は静かに微笑んだ。

――混乱の中でも、彼らは“ひとつ”だった。

それが、誇らしかった。

彼らは兵士じゃない。
探検家ですらない。

“建設者”だ。

人類が決して触れたことのない場所を、
今、築き始めている。

海底のフラッドライトが点灯する。

構造体が、暗闇の中で輝く。

鋼鉄と意志のドーム。
それは、深海に着地した“異星の大使館”のようだった。

そしてその中心に、
ドリルが待機していた。

――予言の刃のように、鈍く輝きながら。

「システム全緑」

エコー の通信が入る。

「電力安定。シーケンス起動します」

数秒後、ドリルが駆動音を響かせる。

振動が船体を通して伝わってくる。

海底の砂と泥と“歴史”が、同時に削られていく。

モニターには、
らせん状に舞い上がる堆積物のスローモーション。

その一層一層が――忘れられた記憶の“囁き”だった。

スフィンクス は、データストリームに顔を近づけ、独り言のように呟いた。

「……これは、“時そのもの”を削っている」

隣の ドック は、静かにドリルの進行を見つめていた。
その表情には、興味と――懸念が混じっていた。

「そして、その“時”に棲んでいたものも」

彼が静かに付け加える。

基地の真下で、
地球が開き始めていた。

そしてその上では――
沈黙が、
“息を呑むような推進力”へと変わっていた。

[7:2] 第七章:深海の基地 ― パート2

ドリルが――“悲鳴”をあげた。

合金の層、圧力隔壁、あらゆる遮断を越えて、
その音は骨の奥にまで届いてきた。

「深度20メートル…30…50…」

エコー の声が制御端末から響く。

「負荷安定。まだ抵抗なし」

観測ハブの中では、全員の視線がスクリーンに注がれていた。

ピクセル でさえ、冗談を言うのをやめていた。

部屋の空気は、機械のリズムに合わせて脈打っていた。

――低く唸る音。
――床に伝わる振動。
――発見へのカウントダウン。

そして――

“揺れ”。

構造体全体がわずかに震えた。
危険ではなかったが、全員が鋭く顔を上げるには十分だった。

「抵抗急上昇」

エコー が確認する。

「物質密度、上昇中」

「何が出た?」

スカイ が訊く。

「玄武岩」

通信越しに地質分析チームが応える。

「高密度で層状。古代の溶岩流の可能性もある」

「あるいは、“遮蔽”だ」

スフィンクス が独り言のように呟く。

「彼らは、それを“埋めておきたかった”のかもしれない」

「あるいは、“誰か”がな」

ドック が、低く補足した。

「よし、頭を交換するわ」

リベット の声が入り、即座に動き出す。

「10分ちょうだい」

彼女はすでに整備ハッチへ向かって走り出していた。

チタン強化・レーザー加工されたドリルヘッドの交換が完了する頃、
温度警告が点滅を始めていた。

「……過熱か?」

レン が訊く。

「冷却システム、最大限稼働中」

ピクセル が操作パネルを操作しながら答える。

「熱調整ルートを切り替える――30秒くれ」

「20でお願い」

リベット が下から返す。

アラームが赤く点滅――
だがすぐに静まった。

ピクセル がニヤリと笑う。

「冷却完了。海キュウリみたいにクールだぜ」

リベット の乾いた声が応じる。

「次の整備で、その比喩回路は切断するわよ」

「それが僕のチャームポイントさ」

ピクセル が返し、
珍しく
エコー も小さく笑った。

だが、誰もが同じ反応を示したわけではない。

主制御室の中央を、
捕食者のように歩く者――
マンバ

手を後ろに組み、狭い歩幅で規則正しく歩き、
視線はずっとドリルのディスプレイに貼りついていた。

「このペースじゃ……完成は来世ね」

彼女は苛立ちを押し殺した声で呟く。

近くに立つ レン は、隣の スカイ に目をやる。

彼女は無言のまま、腕を組み、顔は冷静に見えたが――
指先が、わずかに腰を叩くように動いていた。

マンバ が振り返る。

「機材もある。座標もある。計算も完璧。
……なのに、なぜこんなに遅いの?」

「未知を掘り進めて“死ぬ”のは、避けたいからよ」

スカイ は顔を向けずに言う。

「この任務は、“到達すること”だけが目的じゃない。
――“見つけたあと、生きて戻る”ことも含まれてる」

「まるで政治家のセリフね」

マンバ が皮肉交じりに返す。

「私たちは、躊躇うためにここにいるんじゃない。
“進化”のためよ」

「進化は、無謀な掘削からは生まれない」

レン が、静かに一歩前に出て言った。

部屋が静まり返る。

静かに数値を見ていた サンダー までが、手を止めて耳を傾ける。

「俺たちが掘る1メートルごとに――
歴史が書き換わってる。

……急げば、
その“警告”すら見逃す」

マンバ は黙ったまま。

だが、顎がわずかに強張っていた。

彼女はくるりと背を向け、
再び回転するドリルへ目を向ける。

その瞳は、怒りではない。
――執念だった。

緊張は、解けなかった。

だが、“沈んだ”。

静かに、
まるで深海の海流のように。

時間が過ぎていく。

ドリルは止まらない。

――下へ。
――さらに、下へ。

「深度60メートル」

エコー の声が淡々と響く。

「降下継続中」

「温度、安定」

ピクセル が報告する。

「密度、一定」

海底センサーからの音声も届く。

その合間――

スフィンクス が、 ドック に身を寄せる。

「……感じないか?」

「何を?」

「“沈黙”だ」

老教授は囁くように言う。

「――何かが、違う」

ドック は答えなかった。

ただ静かに、読み取り画面を見つめ――
頷いた。

その下――
時間に触れられたことのない地層で――

何かが、“動いていた”。

岩でもない。
機械でもない。
……まだ、“それ”ではない。

だが、“何か”が。

レン はドリルを見ていた。
その振動が、胸に伝わる。

彼は――瞬きもしなかった。

「……近い」

そう、静かに呟いた。

その声を、隣にいた スカイ は確かに聞いていた。

そして、
――問い返すことはなかった。

[8:1] 第八章:第二層 ― パート1

その瞬間は――四日目に訪れた。

金属が悲鳴を上げるような鋭い音が、ドリルシャフトから響き渡る。
次の瞬間――ビットが突然前方に滑り込み、
空洞へと突き抜けた。

トルク計が急降下。

「接触確認!」

エコー の声が通信に弾ける。興奮がそのまま乗っていた。

「ドリルが突破した――圧力低下。……空洞に到達した!」

一瞬の静寂。
そして――爆発。

歓声。叫び声。笑い。

肩を叩く音、ハグ、拳を突き上げる仕草。

――彼らはやったのだ。

最初の障壁を、突破した。

「全員、静かに!」

レン「コンパス」ウェイランド の声が、
祝賀の空気を鋭く切り裂いた。

「エコー、報告を」

エコー はすでに数値を解析していた。

「深度、およそ三千メートル。……圧力安定――待って」

彼が止まる。

「シャフト内から、空気サンプルが上がってきてる。酸素と窒素――
地表の大気と、ほぼ一致してる」

また、沈黙が戻る。

ドック が前に出て、モニターを細めて見つめた。

「……密閉された生態系が、地下三キロで、いまだに機能してるってことか?」

彼は顎髭に手をやり、不穏げに眉を寄せた。

「もしこれが“呼吸できる空気”なら……状況は一変するぞ」

「ちょっと待って…」

ピクセル が隣のパネルを覗き込む。

「温度が下がってる。それと……バイオエアロゾルの痕跡が混ざってる」

「バイオ……?」

ドック の声が鋭くなる。

「胞子か、花粉のような……空気中を漂う有機物だ」

ピクセル は手早く操作を進める。

「濃度はかなり高い」

マンバ は彼の言葉が終わる前に、すでに動いていた。

ハンターのような目を光らせ、
研究室を真っすぐ横切る。

「化学組成は? 微生物反応はある? サンプルが必要。今すぐ」

「待て」

ドック が手を上げる。声は静かだが、強い。

「どんなリスクがあるか分からない。病原体、毒性……」

「だからこそ、封入状態で採取すべきでしょ」

マンバ が冷たく返す。

「吸気弁を開いて。採取は私が行う」

彼女はすでに装備を整え始めていた。

呼吸マスクを装着し、グローブを密閉し、
その動きには一分の無駄もなかった。

スカイラー「スカイ」モントゴメリー レン に目を向ける。

その表情は読めなかった。

レン は小さく頷く。

――もう戻れない。

ここから先は、“理解”が最優先だ。

数分後、空洞から直接採取された空気を封じた密閉カプセルがいくつも完成した。

マンバ はそれらを、聖遺物のように胸に抱えた。

「アトランティスからの、最初の標本ね……」

彼女の目が、不気味なほど輝いていた。

ドック はひとつのカプセルを光にかざした。

肉眼でも、微細な粒子が星屑のように光を反射していた。

「さて――」

レン が静かに口を開いた。

「……じゃあ、今度は自分たちの目で、見に行こうか」

その声は静かだった。
だがその奥には、
四日間、誰もが待ち続けた想いが込められていた。

スカイ が通信に向かって話す。

「基地より上層艦へ。
メインチーム、降下開始を確認」

そして、振り返ってチームへ言う。

「装備を整えて。
ここから先は、探査の第二段階に入るわ」

全員が素早く着替えた。

軽量エクソスーツ。酸素タンク。密閉ヘルメット。
各種ツール、ライト、観測器。
……そして、少しの“恐れ”。

ドリルリグはすでに即席エレベーターへと転用されていた。

シャフトのケーブルに固定された鋼鉄の檻――
一度に十名まで乗れる。

レン が最初に乗り込む。
制御盤に手をかけ、静かに操作を開始。

モーターが唸る。

プラットフォームが揺れ――ゆっくりと下降していく。

時間にしては数分。
だが、その体感は“永遠”だった。

緊張の静寂が、乗員全体を包み込む。

響くのは――ウィンチの唸りと、
ヘルメット越しの自分たちの呼吸音のみ。

ヘッドライトが、シャフトの壁を揺らす。
影が、鋼と岩の中で捻れる。

レン は周囲を見渡す。

スカイ は手すりを強く握っていた。顔は見えなかったが、白くなった指先が全てを語っていた。

スフィンクス は一歩も動かなかったが、
その呼吸は、明らかに速かった。

ドック は小声で何かを呟いていた。
――祈り、だろうか。

マンバ は腰のサンプル容器をそっと叩き、落ち着かない様子で目を動かす。

ピクセル は手元の機器をいじり、口の中でこう呟いた:

「……深淵へようこそ」

エコー はカムフィードを調整し、通信状態を再確認。

サンダー は不動のまま、地面に根ざすように構えていた。

そして、 シェイド ――
光の届かない場所に静かに立ち、
暗闇を“計測”していた。

――エレベーターが停止した。

荒々しいライトが前方を照らす。

シャフトの先端、岩が水滴を纏って艶めいていた。

――その先には、トンネルが口を開けていた。

完璧な円形。
漆黒。

「……到着だ」

レン が静かに言い、最初の一歩を踏み出す。

彼は手を上げ、
慎重の合図。

そして、闇の中へと足を踏み入れた。

ヘッドライトが黒曜石のような壁に反射する。

風化ではあり得ない滑らかさ。
自然ではあり得ない精度。

「彫られたものじゃないわね」

スカイ が後ろで呟く。

「――建てられたのよ」

他のメンバーも続いて入り、
懐中電灯の光が闇を切り裂いていく。

足音が、無音の回廊で反響する。

冷たい空気。動かない空気。

カビも、腐敗も、生命の気配もない。

ただ、古びた塵が足元に積もっていた。

トンネルが広がる。
壁がわずかに外側に膨らみ――

そして、突然、空間が開けた。

チームは、光が届かないほどの“巨大な空間”へと踏み込んだ。

「補助照明、点灯」

スカイ が鋭く命じる。

――フラッドライトが一斉に点灯する。

そして、彼らの視界に飛び込んできた“それ”は――

息を呑むほど、壮絶だった。

[8:2] 第八章:第二層 ― パート2

フラッドライトが闇を貫いた――
――そして、“不可能”を照らし出した。

眼前に広がるのは、超高層ビルさえ呑み込むほどの巨大な空間。

壁面は黒曜石のような光沢を放ち、
まるで火成ガラスの内側にいるような錯覚を与える。

天井から吊り下がる鍾乳石は、眠る獣の牙のように鋭く、
だが、その配置は――不自然なほど“整っていた”。

自然ではない。

――これは、“洞窟”ではない。
――“設計された空間”だった。

「……なんという……」

スフィンクス の声が通信に震えて響く。

「これは……地質学ではない。建築だ」

チームは一列になって進んだ。慎重に。畏敬をもって。

足元は緩やかに湾曲しており、
まるで自然と中央へと導かれるようだった。

その中心部――微かな光が脈打っていた。

「前方、発光源」

エコー の声が届く。

「電源は不明。非電気的な発光体」

レン「コンパス」ウェイランド が先頭を歩く。
足元を照らすと、微かな“線”が浮かび上がった。

石床に刻まれた回路のようなパターン。
繊細な軌跡を描きながら、中央へと集束している。

その中心に――柱。

その上にあったのは……

玉座?

否。
――“椅子”ではなかった。

“揺りかご”だった。

同じ黒曜石のような素材で形作られた、
精密な“安置台”。

そこに、
――埃と時間に覆われた“何か”が静かに眠っていた。

「……棺だわ」

スカイラー「スカイ」モントゴメリー が、息を呑みながら言う。

レン はゆっくりと頷く。

エジプトでもない。
マヤでもない。
――どの文明にも属さない。

彼は一歩近づき、
慎重に表面の塵を払う。

現れたのは――見覚えのある、そして未知の“文字”たち。

楔形文字。
その隣に、ヒエログリフ。

そして、その下には――
菌糸のように曲がりくねる、曲線的な文様。

あの“シンボル”。
脳と菌糸が絡み合った象徴が、そこにあった。

「……やっぱり、彼らだ」

ピクセル が呟く。

「キューブにも、スフィアにも、同じのがあった」

「そして、“門”にも」

スカイ が付け加える。

「ここが中心だ」

レン は静かに言う。

「単なる部屋じゃない。祭壇か? 指令室か……」

スフィンクス は柱の根元に膝をつき、
手袋越しに刻文をなぞる。

「この言語たちは、共存するはずがない……
だが、ここでは――再編され、統一されている」

「……誰にでも読めるように、意図的に混ぜたのかも」

スカイ が隣で言う。

「いつ、誰が来てもいいように」

「……あるいは、“何か”がそうしたんだ」

レン が呟く。

「――古代の、いまも“待っている”何かが」

その瞬間、
床下から――微かな振動。

世界が“息を吐いた”ような感覚。

「今の、感じたか?」

ドック が言う。

「地震か?」

マンバ の声が鋭くなる。

「揺れは検知されていない」

エコー が答える。

「上層からではない。……下層だ」

一同はその場で固まる。

耳を澄ます。

……無音。

だが次の瞬間――

「新しい反応を検出!」

ピクセル が叫ぶ。

「何かが……起動し始めてる。
エネルギー反応。ここ全体がコンデンサーみたいだ。
……まるで、スイッチを入れたかのように」

中央の光が、再び明滅する。

今度は、より明るく。

そしてそこには――“リズム”があった。

鼓動。

レン スカイ を見る。

「……何かを“開けた”な」

「もう引き返せないわ」

彼女は静かに答える。

「――なら、進むしかない」

レン が言う。

スカイ は一度だけ頷いた。

「チーム、隊形を整えて。全スキャンモードで進行。
誰一人、はぐれないで。

――ここは“生きている”可能性がある」

その言葉は、
空気よりも重く、静寂よりも響いた。

彼らが奥へと進むたび、
闇の中で壁が“耳を傾けている”ようだった。

いや――“見ている”のかもしれない。

第二層は、突破された。

だが――その下に待つものは、

ようやく、“目を覚まし始めた”ばかりだった。

[9:1] 第九章:アトランティスの帰還 ― パート1

彼らは、巨大な地下空洞の縁に立っていた。

その高さも、広さも――測ることはできなかった。

闇が、すべてを呑み込んでいた。

だが、天井の至る所に群れをなすように集まった無数の巨大結晶が、
まるで“凍りついた星座”のように光を砕き、
星屑のような煌めきを空間へ散らしていた。

頭上の“結晶の天蓋”は、
隠されたもう一つの“空”のように、きらめいていた。

――だが、言葉を奪われた本当の理由は、
それではなかった。

足元――

そのほのかな結晶の光に照らされ、
彼らの視界に広がっていたのは――

太古の“都市”だった。

石に刻まれた広大な階段が、彼らの足元から下へと続き、
廃墟の“心臓部”へと導いていた。

目に映るものは、常識を打ち砕く。
だが――それは、荘厳だった。

塔。列柱。ピラミッド。ジッグラト。神殿。

古代エジプト、シュメール、ギリシャ……
すべての文明の建築様式が、
ここでは“時間”を超えて一つに溶け合い――
息を呑むほどの“モザイク都市”となっていた。

そして、その中心――

そこには、“闇”だけがあった。

淡く灯る結晶の光が、
その輪郭をぼんやりと浮かび上がらせているのみ。

灯りはない。
炎も、動きも、気配も、ない。

だが、この都市は――

“放棄された”のではなかった。

“眠っている”。

そう感じた。

目を閉じたまま、
“何か”を待ち続けているように。

誰も、言葉を発しなかった。

その静寂を、破ったのは―― ピクセル だった。

彼はヘルメットを外し、
目を見開いたまま、呆然と笑った。

「……これ……マジで見つけたのか……」

スカイラー「スカイ」モントゴメリー も、
ゆっくりとヘルメットを外し――

その息が、震える。

「アトランティス……」

「私たち……アトランティスの上に立ってる……」

スフィンクス が一歩前に出る。
その声は、感情でかすれていた。

「ようこそ、歴史の中へ……」

「こんな光景を、この目で見る日が来るなんて……」

彼の老いた頬に、涙が光っていた。

レン「コンパス」ウェイランド は、
最初の通りにライトを向けた。

彫像と崩れた柱の影が、
光の動きにあわせて揺れ――

まるで、都市そのものが“夢の中で身じろぎしている”かのようだった。

「降りるぞ」

彼は静かだが、揺るぎない声で言った。

誰も、ためらわなかった。

階段を降りる一歩一歩が、
“聖域”に踏み込むような感覚だった。

言葉はなかった。

降りるごとに、“静寂”は重くなった。

――都市が、耳を澄ませているようだった。

石畳の道には、点々と遺物が散らばっていた。

金の腕輪。銀の杯。割れた陶器。

すべて、無傷のまま。

“触れられた痕跡”すら、なかった。

まるで、人々が「会話の途中で」姿を消したようだった。

スフィンクス が膝をつき、
金のプレートを拾い上げる。

そこには、文字が刻まれていた。

「ギリシャ文字……それに楔形文字……」

彼は呟く。

「ひとつの遺物に、両方が……
まるで、すべての文明の“残響”が、ここに層を成しているようだ……」

エコー は、朽ちた像の足元に積もったコインの山を照らす。

「世界中の宝……」

彼は低く囁いた。

「ここに、忘れ去られたように眠ってる……」

リベット が、ひび割れた浮彫に手を伸ばす。

声は低く、不安が混ざっていた。

「こんな価値のある金を……どうして置いていったの?
これだけで何十億だよ……」

サンダー の声が、その背後で穏やかに響いた。

「彼らにとって、金に意味はなかったのかもしれない。
――あるいは、いつか戻ってくるつもりだった」

「でも戻らなかった」

マンバ が、冷たく断言する。

「何かが、それを“止めた”のよ」

広場へとたどり着いた。

周囲を囲むのは、数えきれない“像”たち。

神々。英雄たち。

見知った姿もあれば、
夢の中か、忘れられた神話から引きちぎられたようなものもあった。

スフィンクス が、ひときわ大きな石板の前で立ち止まる。

ライトを向けると、彫刻が輝いた。

「これを見てくれ」

彼は声を上げる。

「テセウスとミノタウロスの神話の場面だ」

そこには、剣を掲げる戦士と、
倒れ伏した獣が描かれていた。

だが――その細部は、奇妙だった。

テセウスの顔立ちは、あまりにも現代的。
彼の鎧は、鋭角で合成素材のように見えた。

そして――迷宮の壁を飾るのは、
単なる模様ではなかった。

“記号”。

“構造図”。

“設計図”だった。

「こっちを見てくれ!」

ドック の声は、困惑に震えていた。

「ヘラクレスがヒュドラを倒してる――
でもその“首”、見てくれ……

――全部、“機械”だ」

スフィンクス は、壁から壁へと移動する。
ライトはわずかに揺れていた。

「オリュンポスの神々……このフレスコ画たち……」

「……神話が“作り話”じゃなかったとしたら?」

彼は囁く。

「……“記憶”だったとしたら?」

「――アトランティスの“記憶”」

その“驚愕”が、徐々に崩れ始める。

代わって、
忍び寄る――“冷たい気配”。

目覚めを待つ、
“何か”の気配。

[9:2] 第九章:アトランティスの帰還 ― パート2

彼らは広場の中央に立っていた。

頭上では、結晶の光が神々の像に反射し、静かに揺れていた。

雷を目に宿した ゼウス
忘れられた扉を守る
アヌビス
そして――
螺旋状の髪飾りをつけた女神の像は、
手に“何か”、ほとんど“デジタル”にも見える物体を抱えていた。

それぞれの像が、
沈黙と威圧をまといながら――
彼らを“見下ろしていた”。

ピクセル が小声でつぶやいた。

「……まるでタイムトラベラーが作った博物館って感じだな……」

誰も笑わなかった。

スフィンクス は完全に没入していた。

彼は、石板に指を滑らせながら、
半ば夢遊病者のように歩いていた。

「“大いなる沈黙”について記されている……」

彼は囁くように読み上げた。

「“深き声が目覚めるとき、門はけっして開かれてはならぬ……”」

彼の息が詰まる。

「……これはアッカド語だ……
でも、その隣には――ヒエログリフ……?
……あり得ないはずだ……」

レン「コンパス」ウェイランド はゆっくりと広場を見渡す。

像。壁画。
今の時代では誰一人解読できない“記号”たち。

だが、確かに“ここにある”。
幻ではなく、確かに“造られたもの”として。

スカイラー「スカイ」モントゴメリー は彼のすぐそばで建築様式を見つめていた。

「……まるで、ここを“交差点”として作ったみたいね」

彼女の声は静かだった。

「ひとつの文明じゃない。複数。まるで、すべてが“この場所”を知っていたように」

「あるいは、“連れてこられた”のかもな」

コンパス が囁く。

「何かを見るために……
あるいは、“何か”を守るために」

ドック は、砕けたオベリスクの前で立ち止まった。

その表面には、同心円状の模様。

まるで“脳”――

だが、そこから分岐するのは、
菌糸のような細かな“神経線”だった。

彼は スフィンクス に視線を向けた。

「……見えるか?」

「もう神話なんかじゃない」

ドック の言葉に、 スフィンクス がゆっくり頷く。

「最初から、“作り話”ではなかったのかもしれん」

「ただ……我々が“読み方”を忘れただけだ」

その時、沈黙を切り裂いたのは マンバ の声だった。

鋭く、冷徹だった。

「ここは“聖域”なんかじゃない」

「――“封印区域”よ」

全員が、振り返る。

マンバ はゆっくりと広場へ足を踏み入れた。

その足音が石畳に響く。

彼女の目は、静寂を“切り裂くように”動いていた。

「人はいない。腐敗もない。屍も、ない」

「何かが、“命”を止めたのよ。そして、それは――まだ動いてる」

サンダー がその横に立ち、静かに頷く。

「彼らは去ったんじゃない。“消された”んだ」

スフィンクス は首を振る。

否定のようでいて、どこか諦めに似た仕草だった。

「……あるいは、“取り込まれた”のかもしれん」

「塵一つない。風化の痕跡もない。

この都市は……“保存されている”」

「保存されているからといって、安全とは限らないわ」

マンバ が言い切る。

「“封じられていた”のよ」

ピクセル の笑顔が消えた。

彼はカメラの電源を落とす。

――彼らが都市に足を踏み入れて以来、初めてだった。

誰も、口を開かなかった。

結晶の光の下、
彫像と、解読不可能な記号の下、

“沈黙”の中で――何かが、微かに“動いた”。

コンパス は、それを感じた。

それはもはや“畏敬”ではなかった。

それは――“存在”だった。

この都市は、“見ている”。

スカイ が最初に口を開いた。

その声は、確かな意志を持っていた。

「進むわ。まだ見つけるべきものがある」

コンパス は頷くが、その場を離れなかった。

彼は見上げた。

――闇に沈む塔群。
――融合した文明。
――完璧すぎる精度。

アトランティスは、“帰ってきた”。

そして、ずっと――
“彼ら”を待っていたのだ。

[10:1] 第十章:伝説の仮面の下で ― パート1

「止まって」
リベット が鋭く言い、手を上げた。

チームは即座に動きを止めた。

彼女のフラッシュライトが右側の陰に差し込む。
瓦礫にしか見えなかったものが、次第に“形”を持ち始める。

闇の中に浮かび上がったのは――
“均整のとれた山”。

彼らが近づくにつれて、言葉が消えた。

――それは、“靴”だった。

山のように積み上げられた靴。

それも、数百、いや数千。

整然と並べられ、まるで誰かが“丁寧に置いた”かのように見えた。

小さなサンダル。擦り切れたブーツ。
繊細な刺繍入りのスリッパ。

素材もサイズも年代も異なる――
あらゆる“履物”が、静かに層を成していた。

その傍らには、
畳まれた衣服。

ローブ、チュニック、外套、子どものワンピース。

時間に侵されることなく、
埃に柔らかく包まれて静かに積まれていた。

まるでその持ち主たちが、
何かに導かれるように“衣服を脱ぎ”、
身一つで去ったように。

ドック はゆっくりとしゃがみ、
小さなサンダルを拾い上げた。

手袋越しの指先が震えていた。

古びた革が、彼の触れた瞬間にパキリと音を立て、
わずかな埃が、床へ舞い落ちた。

「……これは……」

言いかけたが、言葉を止めた。

彼は言わなくてよかった。

誰もが、
“あのモノクロの写真”を思い出していた。

暗黒の歴史に残された――
持ち主のいない、“モノ”の山。

「人は……こんな形では去らない」

レン「コンパス」ウェイランド が低く呟いた。

胸に、冷たい感覚が広がる。

「――“連れて行かれた”のでなければ」

彼は続ける。声が乾いていた。

「……“捧げられた”のよ」

スカイラー「スカイ」モントゴメリー が囁いた。

その声は、嵐の直前の静けさのように、冷たく沈んでいた。

誰も、返さなかった。

ただ リベット のライトが、
布と靴の間を彷徨いながら――

一行はさらに奥へ進んだ。

通路は徐々に狭まり、暗くなっていく。

足音が、石の壁に反響し、鐘のように響く。

骨はなかった。
遺体も、墓標も、灰も。

あるのは、“不在の静寂”。

そして、
“置かれたままの物”だけだった。

「彼らは、どこへ行ったんだ……」

エコー が、壁の影を探るように低く呟いた。

返事はなかった。

ただ、
足元で埃が囁くだけ。

やがて、通路は広がり、
漆黒の石でできた広大な前室に出た。

その奥にそびえるのは――
高さ二十メートルを超える、巨大な“門”。

黒。

古。

――“守護者”のように佇む、“未知”の入り口だった。

門には、深く彫り込まれた文様が刻まれていた。

一部は、すぐに判別できた。

エジプトのヒエログリフ。
シュメールの楔形文字。

だが、その多くは――
“異質”だった。

角張りながらも流れるような曲線を描き、
“人の目”には理解できない形で組み合わされていた。

スフィンクス が前へ出て、
手のひらでそっと石を撫でた。

「ヒエログリフ……楔形文字……
それに――それ以外の何か……」

彼の声は震えていた。

「異なる文明の言語が……絡み合っている……
まるで、彼らの“最後の言葉”が編み込まれているかのようだ」

「それとも、“警告”かもしれない」

コンパス が目を細めながら言った。

「あるいは――墓碑銘よ」

マンバ が言葉を重ねる。

その声は、砕けたガラスのように冷たく鋭かった。

「――“死者を見つける者”のためのね」

スフィンクス の指が、中央の帯に刻まれた
一際深く切り込まれた文字の列で止まる。

その行は、螺旋や断裂した記号で囲まれていた。

彼は、長く息を吐き――読み上げた。

声は、石以上の重みを帯びていた。

「――百二十年後、水による死が来る」

その言葉に、空間が凍りついた。

その音が――
一度、二度と反響し、

そして、天井の奥の闇へと吸い込まれていった。

[10:2] 第十章:伝説の仮面の下で ― パート2

スフィンクス の声が消えた後、
その余韻は静寂の天井に吸い込まれるように消えていった。

誰一人、動かなかった。

「百二十年……」
エコー がようやく囁いた。
「……それまでに、何が起きるっていうんだ?」

彼の声はかすれていた。
しかし誰も、すぐには答えなかった。

スカイラー「スカイ」モントゴメリー の顔は青ざめ、唇は固く結ばれていた。
レン「コンパス」ウェイランド が一歩前に出て、
巨大な門を見上げながら口を開く。

「これは……カウントダウンか?」

「未来の誰かに向けた、警告だったのか……?」

スフィンクス はまだ言葉を発さなかった。
ただ、彼が読んだばかりの文をじっと見つめていた。

その意味が、ようやく骨の奥にまで沁み始めていたのだろう。

ドック が震える息を吐いた。
彼は、子供のサンダルを手に取ってから一歩も動いていなかった。

「……遺体もない。血も、骨も……何もない……」

「残されていたのは、ただ……これだけだ」

リベット が腕を組み、衣服の山の傍らで静かに言った。

「……何かが来るって、知ってたんだろう」

「準備してた。……でも、結局逃げ切れなかった」

「……あるいは、逃げ切ったのかもな」

マンバ が、門に近づきながら言う。

「全部置いて――脱ぎ捨てていった。皮膚のように」

その声は平坦だったが、
その奥には、何か別のもの――渇望のような、挑発のような響きがあった。

スカイ は何も返さなかった。
ただ、
コンパス の方を見た。

「……で? 次はどうするの?」

コンパス は一瞬ためらったが、やがて静かに言った。

「――開けよう」

誰も反対しなかった。

全員が、暗黒の門へと向かって進んだ。

近づくにつれ、いくつかの“細部”が見え始めた。

石の床には、古びた“レール”のような溝。

埃の中には、かすかな“跡”――
かつて、巨大な何かがここを通った印のような。

スフィンクス が、手袋越しに門の縁を撫でる。

「取っ手はない……
でもこのライン……何かの機構と繋がってるかもしれん」

「下がって」

リベット が呼びかけ、スキャナーを起動した。

数秒後、彼女の腕の端末に緑の光が灯る。

「磁気ロックね。古代式だけど、まだ反応してる」

彼女は コンパス に頷いた。

「いつでもいける」

コンパス はゆっくり息を吸った。

「――やれ」

リベット が操作に入る。

最初は、何も起きなかった。

だが次第に――
低いうなり音。

足元に微振動が走り、天井から埃が細く降り落ちる。

そして、門が動き始めた。

黒の中にさらに黒い“縫い目”が現れ、
ゆっくりと二つに割れていく。

やがて、人が横向きで通れるほどの隙間が生まれた。

そこから、風が吹き出した――
乾いて古く、だがどこか“帯電”しているような風。

雷のあとに残るオゾンの記憶のような、
長い間、息を止めていたかのような気配。

コンパス が先頭に立ち、
懐中電灯を掲げて隙間の中へと進んだ。

中は――細く、滑らかで、驚くほど清潔な通路。

「彫られたものじゃない……これは“設計された”通路だ」

スフィンクス が小声で呟いた。

誰も反論しなかった。

一人、また一人と中に入る。

門は閉じることなく――
だが開いたままでもなく、
最後の一人が通過した瞬間、ぴたりと止まった。

まるで“見守るかのように”。

内部の空気は重たかった。

完璧な床が足音を吸収し、
壁は石でも金属でもない――
その中間のような暗い素材で構成されていた。

そこには、幾何学模様がかすかに刻まれていた。

それは星座のようでもあり、
回路図のようでもあった。

ドック が沈黙を破る。

「……この場所、本来なら“封印されたまま”であるべきだったのかもな」

「なら、“鍵”なんて残すべきじゃなかった」

マンバ が即答した。

コンパス は彼女を一瞥したが、何も言わなかった。

彼らは黙って歩き続けた。

やがて、通路は再び開け、
彼らは新たな空間に出た。

冷たい空気が肌を刺す。

中央には、“記念碑”がそびえていた。

同じ黒い合金で作られた塔――
上から下までびっしりと刻まれた記号。

その根元には――
半分が人間、半分が機械の像が並んでいた。

言葉ではない。

それは、“存在”そのものだった。

コンパス の胸に――
“自分のものではない、もう一つの鼓動”が鳴っていた。

「これは、ただの都市じゃない」

スカイ の声が静かに響いた。

「これは――“警告”よ」

誰一人として、否定しなかった。
――もう、できなかった。

[11:1] 第十一章:過去からの警告 — パート1

古代都市の高くそびえる石造の天井の下に、
重い沈黙が垂れ込めていた。

スフィンクス 教授が先ほど読んだ碑文の残響が、まだ空気の中に微かに震えていた。

「百二十年以内に、水が来る。」

異世界から突きつけられた判決のように、
あの巨大な門に刻まれたその言葉は、全員の胸を凍らせた。

最初に沈黙を破ったのは、 スカイラー「スカイ」モントゴメリー だった。
その声はかすかで、そして畏怖に満ちていた。

「……彼らは知ってたのね。洪水が来ることを……
でも、それはただの伝説だったはずよね?」

レン「コンパス」ウェイランド がゆっくりと前に出た。
声は落ち着いていたが、全身に緊張が走っていた。

「もしこれが現実なら……
俺たちは、これまでの歴史の常識を根底から覆すものを見つけたことになる。」

「アトランティスはもう“神話”じゃない。――警告だ。」

彼はそっと手を伸ばし、
あの冷たい門の表面に手のひらを当てた。

「問題は……“彼らが隠したもの”を、
俺たちが見る準備があるかどうかだ。」

スフィンクス が顔を近づけ、古代の線刻を指で慎重になぞる。

「ここに書いてある……“欺きの深淵を開けるには、心を使え”と。」

「……謎かけか?」
彼は囁くように言った。
「それとも、文字通りの意味か……?」

「“もっと力ずくで行け”って意味かもね。」
リベット が低く唸った。
すでに強化金属の手で石の隙間を探っている。

彼女が押すより前に――
低い機械音が空気を震わせた。

全員が動きを止めた。

コンパス の腰に装着されたキューブが、
淡く脈打ちはじめる。

彼は反射的にそれを外し、
指が表面に触れた瞬間――
中から小さな“カチリ”という音が響いた。

キューブは層を解くように展開し、
内部から隠された構造が現れた。

そこには、淡く光る古代文字が刻まれていた。
まるで燃え尽きた炭が再び命を取り戻すように。

スフィンクス が息を呑む。

「……DINGIR……メソポタミアの楔形文字。意味は“神”……」

彼は別の記号を指差す。
その手は震えていた。

「エジプトの“神々”の象徴。さらに……ANKH。“命”……だけじゃない。永遠の命。」

誰も声を発さなかった。

スーツのかすかな機械音さえ、今は消えていた。

スフィンクス の手は、キューブの上で止まったまま。
それ以上、触れることすらためらっているようだった。

「これは……ただ不死を書いてるんじゃない。
彼らは――それを“追い求めていた”。」

「神に……なろうとしてたの?」
スカイ の声は、ヘルメットの内側で微かに震えていた。

スフィンクス はゆっくりと頷く。
そして金属に焼き付けられた最後の一行を指差した。

「DINGIR.NA.BA.KI――『神々への昇華』だ。」

コンパス が乾いた笑いを漏らす。
だが、その奥にあるのは、深い不安だった。

「最高だな……
ただの遺物じゃない。
これは“宣言”だよ。人間を超えられると信じた者たちの“約束”だ。」

彼は周囲を見渡す。

「もしそれが本当なら……
何千年も前に、“不死”への鍵を手にした者たちがいたってことになる。」

空気が重くなった。
まるで“知識そのもの”に重さがあるようだった。

その時――
低いうねりが地の底から響いた。

キューブの光が弱まった。

スカイ が沈黙を破る。

「……これを外に出すわけにはいかない。まだだ。
何を相手にしてるか分かるまでは。」

マンバ が一歩前に出た。
目には、火のような光が映っていた。

「人間は、生まれた瞬間から“死”に向かっている。」
その声は低く、だが鋭く。

「もしその“真理”を壊せる可能性が一片でもあるなら――
どんな危険も価値がある。」

コンパス は彼女を見た。
その声は、今までにないほど冷たかった。

「これが漏れれば、人類は一つになんかならない。
戦争が始まる。分かってるはずだろ。」

「かもね。」
マンバ は淡く微笑んだ。

「でも……“死”よりもリスクが大きいものなんてある?
誰も、死が“安全”かなんて聞かない。ただ受け入れるのよ。」

「――そして時に、“それ”になる。」
ドック が静かに呟いた。

言葉が消える。

再び、重い沈黙。

やがて、 スカイ が進み出た。
その声は落ち着いていて、確信に満ちていた。

「……もしかしたら、これを見つけることこそが“運命”だったのかもしれない。」

「一つのアーティファクトが、世界の反対側で。
もう一つがここで。
そして今、ここに揃った――これは偶然じゃない。」

彼女は周囲を見渡す。

「これは“呼びかけ”よ。
それに私たちは、応えた。」

その言葉は、闇の中に鐘のように響いた。

誰も、動かなかった。

コンパス の心の奥に、別の選択肢が浮かんだ。
――今からでも引き返せる。
シャフトを崩し、映像を消去し、
“何も見つけなかった”ことにする。

アトランティスを再び“神話”の静寂へと沈めることもできる。

でも――

好奇心は、用心よりも声が大きい。

最後の沈黙。

そして――
マンバ が言った。
その声は鋼のようだった。

「もう選択肢はないわ。
答えは、あの扉の向こうよ。」

コンパス は頷いた。

「――開けよう。」

[11:2] 第十一章:過去からの警告 — パート2

最初、門は動かなかった。
時間も野心も寄せ付けない、太古の重みがそれを押しとどめていた。

リベット が一歩前に出て、外骨格スーツ越しに指を鳴らした。

「優しくノックしてみるわね」
そう言って、笑みを浮かべながら身構えた。

サーボモーターが唸りを上げ、金属が石に食い込む音が響く。
しばらく何も起こらなかったが――
鋭い“バキッ”という音と共に、巨大な蝶番が軋んだ。

「動いた!」
リベットが叫ぶ。
「みんな、手伝って!」

スカイ サンダー が片側へ。
コンパス シェイド がもう一方へ。
筋肉をきしませ、心臓を打ち鳴らしながら、彼らは一斉に押した。

石が石を擦る。
地の底が呻くような音が響き、
空気中に、何層もの埃が崩れ落ちた。

――そして、
それは“息”だった。

深海の底よりも冷たい空気が、
ゆっくりとトンネルの奥から押し出されてきた。
まるで、奈落の底から囁く者の吐息。

誰もが身をすくめた。
リベットでさえ、一歩後退し、まばたきをした。

トンネルの先は、急傾斜に下りながら、
闇の中へと続いていた。
その暗さは、彼らのライトすら飲み込むほどだった。

ピクセル が低くつぶやいた。

「何かが……生きてる気がする。いや、文字通りじゃない。ただ――古くて、見てる。」

ドック が手袋を直しながら、静かに言った。
その声はどこか夢遊病者のようだった。

「この感じ……知ってる。
疫病の地下室……死が住み着き、離れなかった場所。」

「これは“死”じゃないわ」
マンバ が応じた。
「これは“記憶”。――再び生まれるのを待ってる。」

コンパス はトンネルを見据え、目を細める。
彼の手は、無意識のうちにキューブを強く握りしめていた。

スカイ の声がかすかに届いた。
「中に何があるか、まだ分からない。」

「そうだな」
コンパスは頷いた。
「だが、それを確かめに来たんだ。」

彼は振り返り、自分のチームを見渡した。

怖れの色を浮かべている者もいた。
決意の目をした者もいた。
だが――誰一人として、引き返そうとはしなかった。

「装備は最小限に。システムチェック。慎重に、ゆっくり、そして全員一緒に行く。」

「もし罠だったら?」
リベットが肩のプレートを調整しながら訊いた。

「その時は、こっちから仕掛ける。」
コンパスの返答は、静かだが鋭かった。

彼らは前へと進み始めた。

ヘルメットとスーツに取り付けられたライトが灯る。
入り口はより大きく口を開き、
その内側の空気は湿っていて、静電気を帯びたように感じられた。

それは――名付けようのない何かだった。
だが確かに“古い”何か。

その時、コンパスの腰のキューブが微かに脈打った。

それは過去からの心音。
彼らを“呼ぶ”音。

一行は、闇の中へと足を踏み入れた。

――そしてその闇は、
まるで“歓迎”するかのように、彼らを包み込んだ。

[12:1] 第12章 トンネルの番人 - 前編

ドックが最初に冷静さを取り戻した。彼は壁のそばにしゃがみ込み、携帯スキャナーを確認した。​

「酸素レベルは適正…湿度は高め…胞子を検出」​

彼はつぶやいた。​

「今のところは安全圏内だ」​

スカイとレンはすでに前進しており、ヘルメットのライトが前方の闇を切り裂いていた。周囲の壁は滑らかで暗く、不自然なほどなめらかに輝いていた。​

やがて、光が巨大な物体を照らし出した。​

彼らは、そびえ立つモノリスが支配する広間に足を踏み入れた。​

それは漆黒で、刃のような形状をしており、地球の中心に突き刺さった剣のように地面から立ち上がっていた。​

「オベリスク…それとも刃か」​

エコーがささやいた。​

「ドック?」​

レンが静かに尋ねた。​

ドックはひざまずき、基部の埃を払い落とした。​

「これは石じゃない」​

彼はゆっくりと言った。​

「鉱物と金属が融合した複合素材だ。しかし、見たことのないものだ。人工的に製造された装置だ」​

スフィンクスはモノリスの周囲を回りながら、滑らかな表面を手でなぞった。​

「刻印はない」​

彼は眉をひそめた。​

「門にはあったのに。これは…沈黙している」​

「ただの装飾かもしれない」​

リベットが提案したが、その声には自信がなかった。​

ピクセルはすでにスキャナーを取り出し、読み取りを始めていた。​

「そうは思えない。内部に空洞がある。固体ではない。…中は空洞だ。チャンバーかもしれない。あるいは武器か」​

「気をつけて。罠かもしれない」​

スカイが警告した。​

「複合合金、エネルギー反応、内部空洞…」​

ピクセルがつぶやいた。​

「リアクターかもしれない。ミサイルか。あるいは、もっと奇妙なものかも」​

マンバは、入室以来ずっとそれから目を離さず、低い声で言った。​

「もしこれが武器なら、理解する必要がある。資産にも脅威にもなり得る」​

そして、初めてティエンが影の中から口を開いた。​

「もしかしたら、すでに発射されたのかもしれない」

「何かを、あるいは誰かを…より深いものから守るために設計されたのかもしれない」​

レンはモノリスの向こうにあるトンネルの口を見つめた。​

それは光を飲み込み、古代的で不可解だった。​

「このトンネルがどこまで続いているのか、知る必要がある」​

リベットは装備からコンパクトなレーザー測距器を取り出し、トンネルの端に慎重に設置した。​

「この先がどれだけ深いか、見てみよう」​

「10キロなら、すぐにわかる」​

チームは後ろに下がり、細い赤いビームが前方に発射された—​

そして闇の中に消えた。​

スクリーンがちらついた。点滅するダッシュ。​

「反射がない?」​

ピクセルが眉をひそめた。​

「そんなはずは…」​

数秒が過ぎた。聞こえるのは装備のハム音とスキャナーのかすかな唸りだけだった。​

そして—鋭いビープ音。​

ディスプレイが点灯した。​

15,000メートル。​

そして—数字が下がり始めた。​

14,950… 14,900… 14,850…​

「待って—15キロからの反射?!」​

リベットが叫び、スクリーンに駆け寄った。​

「見て!動いてる。急速に下がってる。14,700… 14,650…」​

「何かが上がってきてる」​

スカイがささやいた。まるで呪文を破るのを恐れているかのように。​

「速い」​

「信号の歪みかも?」​

ドックが不確かな声で提案した。​

「違う」​

レンがスキャナーを掴み、鋭く言った。​

「これは現実だ。動いてる。何か巨大なものがこちらに向かっている。今まさに」​

その言葉は氷のように突き刺さった。​

武器が構えられた。セーフティが解除された。​

懐中電灯が石を照らし、見えない動きを追った。​

空気が重くなった。​

そして—音がした。​

微かで、深く、まるで巨大な歯車が彼らの下で軋むような音。​

次に、轟音が響いた。​

低く、空洞で、人間ではない。​

トンネルが震えた。​

そして闇が…動いた。​

「後退!」​

サンダーが叫び、スカイの前に立った。​

チームは新たな位置に移動し、モノリスを障壁として利用した。​

武器が黒い回廊に向けられた。​

そして光がそれを捉えた。​

何かが現れた。​

形のない、巨大な、ぬめりを帯びた光沢を持つもの。​

それは液体の影のようにうねり、静かに壁や床を這っていた。​

「なんてこった…」​

エコーが無線を手に震え

[12:2] 第12章 トンネルの番人-後編

静まり返った空間の中、スカイラー「スカイ」モントゴメリーは仲間たちの顔を確認していた。全員無事。擦り傷や打撲、そして衝撃の表情はあれど、命に別状はなかった。

「……今のは、本当に紙一重だったわね」
彼女は息をつきながら言った。
普段なら危機の中でも冷静な彼女だったが、今はその表情すら揺らいでいた。

「もしあの化け物が私たちに届いていたら……」
彼女はかぶりを振った。
「古代の仕掛けが、私たちを守ってくれた。あれは——哨兵。正確無比な殺戮兵器。」

「しかも、まるで予定通りに動いた」
レン「コンパス」ウェイランドが言い、床から落としたライトを拾い上げた。
彼の光が、今は静まり返った黒いモノリスをなぞる。

「この施設……生きている。何かを、今も守り続けてる。」

「ということは、守るに値する何かがこの先にある」
ドックが応じた。
彼は足元の金属片をブーツで軽く蹴った。まだ熱を帯びていた。
「もしくは、外に出さないための何かだ。俺たちからじゃない……それが“出る”ことから、だ。」

「門はただの扉じゃなかった」
彼はさらに続けた。
「封印だった。永遠に閉じられるはずのものだった。」

「それだけの防衛装置が仕掛けられているということは——その奥には、計り知れない何かがあるはず」
マンバの声は、畏怖に触れたように低く、熱を帯びていた。

「……あるいは、それだけ危険ってことだ」
ティエンが短く笑った。
「封印しておくべきもの。あれは“守り”じゃなくて、“隔離”だったのかもな。」

その言葉が空間に重く落ちた。
全員、その両方の可能性を否応なく理解していた。

ドックは、焼け跡に残る怪物の灰を見下ろして、ほとんど独り言のように呟いた。
「……もしあれが“不死”のなれの果てなら、死ぬ方がマシかもしれないな。」

レンは静かに立ち上がった。顎に力がこもる。

「もう、わかっただろ」
「このまま先に進むわけにはいかない。計画が要る。一度基地に戻って装備を整えて……」

——その時だった。

床が震えた。

「地震か!?」
エコーが叫び、壁に手をついた。

振動は増した。
天井から砂塵が音もなく舞い落ちてくる。

背後——すなわち門の方向から、轟音が鳴り響いた。

サンダーは反射的にスカイを庇い、モノリスの陰へと押し込んだ。
ティエンはすばやくスフィンクスの腕をつかみ、崩れ落ちる岩の直撃から彼を引き離した。

レンは入り口側に振り返り、胸が凍る。

ライトが捉えた。
門へと続くトンネルの奥——
そこに、粉塵を巻き上げながら崩れ落ちる石壁の奔流があった。

そして——
その音が聞こえた。

誰もが恐れる、あの音。

——崩落。

暗闇を切り裂く爆音。
床が跳ねる。
壁がうねる。

そして——
静寂。

彼らは出口へと駆けた。
だが、そこで足が止まった。

視界の先に広がっていたのは、鋭利な岩の山——
砕けた石と、何千年もの静寂が積み重なったような瓦礫の壁だった。

帰り道は——完全に、失われていた。

スカイは崩落を見つめ、絶句した。
胸が激しく上下していた。

「……冗談でしょ……」

誰も返事をしなかった。

彼らは、地球の深淵に——
生きたまま、閉じ込められた。

背後には、プラズマで焼かれた亡骸の山。

その先には、ただ——
暗黒。

そしてまだ、この死者たちの都が抱える、
最後の秘密が残されていた。

[13:1] 第13章:闇への道 — パート1

「出口が……崩れたのか……」
スフィンクスが囁いた。
その声には震えがあり、老教授の顔には、これまでに見せたことのない恐怖がにじんでいた。
「我々は……閉じ込められたのか?」

「落ち着いて」
スカイが言った。心臓が早鐘のように打つのを押さえ込みながらも、声を平静に保とうとしていた。
「局所的な崩落かもしれない。エコー、基地との通信を試して」

エコーはすでに送信装置にかがみ込み、指を踊らせ、片耳をヘッドセットに押し当てていた。
……しかし、応えるのはただの雑音だった。

彼は顔を上げ、重く首を横に振った。
「上の岩盤が厚すぎる。完全に遮断されてる。中継ビーコンは残すが、もっと強力な出力源がないと地上まで届かない」

リベットは、闇に呑まれたトンネルの奥をじっと見つめた。
「じゃあ、進むしかないのね」
声は静かだった。
「前に進んで別の出口を探すか、内部から通信できる場所を探すか」

「コンパスのアーティファクトが、さらに奥に反応してるなら」
リベットは続けた。
「何か発信できる技術が、まだ生きてる可能性もあるわ」

レン「コンパス」は静かに頷いた。もはや言葉は不要だった。
戻る道は、完全に断たれた。
進むしかない。

「モノリスを後にすれば、もう守りはない」
レンが警告する。
「しかも光を使えば、あの怪物を呼ぶかもしれない。何か手はあるか?」

「赤外線カメラ付きのスカウトドローンがあるよ」
ピクセルが言いながら、背嚢を開ける。
「先に一機飛ばす」

「それと」
リベットが冷静に口を挟んだ。
「赤外線ゴーグル、全員分持ってきてる。もともとアトランティスの封印構造を調査するためだったけど……今は暗闇の中でも見えて、相手からは見えない」

「完璧だ」
レンは言った。
「配ってくれ」

リベットがゴーグルを手渡している間に、ピクセルはヘッドセットを装着し、ドローンを起動させた。
機体は静かな羽音を立てながら、漆黒の中へと滑り込んでいった。

誰もが息を潜め、耳を澄ます。
ピクセルは独り言のように呟きながら、データの流れを目で追っていた。
やがて彼はヘッドセットを外し、全員の視線が集まった。

「どうだった?」
マンバが短く問う。

「二つの報告がある」
ピクセルは言った。

「いい報せと悪い報せ?」
マンバが眉をひそめる。

「いや。悪いのと……もっと悪いの」

チーム全体が緊張した。

「もっと悪い方から言うと、トンネルの先に深い亀裂がある。そして……同じタイプのやつがいた。あのモノリスに殺された怪物と同じ。少なくとも二体」

重い沈黙。

「で、“ただの悪い方”は?」
レンが訊く。

「天井にレールがある。でかい輸送軌道が前方へ延びてる」

「それがどうして悪いんだ?」
エコーが眉をひそめる。

「それを走る乗り物が……ないんだよ」

彼らが見上げると、厚みのある双軌レールが天井に沿って伸びていた。

「輸送システムね」
リベットが目を細める。
「物資用かもしれない。貨物があったなら、プラットフォームがあるはず」

彼女は誰の確認も待たず、歩き出した。
モノリスの奥、小さなくぼみにそれはあった。数台の浮遊カートが、レールに吊られていた。

クランプは不思議な銀色の合金製で、レンのキューブと同じ素材に見えた。
しかも——レールに触れずに浮いている。

「磁気浮上式……」
リベットが呟いた。
「でも……逆さま? 通常は下側に設置されるはず」

「重貨物は下で、こっちは軽量輸送だったのかもな」
レンが床を調べながら言う。
「同時輸送システムだ」

「ただし、電源が死んでる」
ピクセルがカートを覗き込みながら言う。
「浮いてるだけ。動かせない」

「なら問題ないわ」
リベットがにやりと笑う。
「予備の駆動ユニットがある。ゴムローラーで簡易推進にするわ。速くはないけど、静かに進める」

全員が頷いた。
それが今のところ、最善の策だった。

リベットが修理を進めている間に、チームは先頭のカートに物資を積み込んだ。
まもなく準備が整った。

その先には——闇。
未知。

だが、彼らには今、進むための手段がある。

モーターの起動と共に、カートは静かに動き出した。
ゴムローラーがレールを噛み、無音に近い速度で滑るように前へ進んだ。

誰も、光を点けようとはしなかった。

レン「コンパス」は先頭に座り、ゴーグルを調整した。
視界の先には、沈黙に包まれたトンネルの闇が口を開けていた。

カートは進む。
喉元のような空間へと。

その下には——裂け目。
地球の傷跡。
深く、終わりが見えない。

暗視の中で、レンはそれらを見た。
裂け目の両側に潜むものたち。
動いていた。
暗く、うごめき、
確かに生きていた。

眠っている——今のところは。

一つの音、一つの光で——目を覚ます。

誰も声を出さなかった。
ただ、モーターの微かな唸りだけが響いた。

時に、影が近づくように揺れた。
ちらつき、波紋のように。

「まだ動いてない……」
ピクセルが小声で呟く。

「刺激しないで」
スカイが低く答えた。
「聞いてるわ」

「……あれは飢えてる」
エコーの声が、まるで独り言のように落ちた。

時間は引き延ばされたように感じた。
1メートルが、まるで1時間。

そして——レンが手を上げた。

「減速してくれ」
彼は静かに言った。

リベットがアクセルを緩める。
カートは唸りを保ちながら、徐々に速度を落とした。

[13:2] 第13章:闇への道 ― パート2

カートは滑るように進み続けていた。
その静かなモーター音だけが、分厚い沈黙を裂いていた。
レン「コンパス」ウェイランドは赤外線ゴーグルを微調整しながら前方を注視していた。
もはやこのトンネルは通路ではなかった。
喉のように狭まり、彼らを丸ごと飲み込もうとしていた。

足元では、裂け目が広がっていた。
黒い血管のように、無数の亀裂が地面に走っている。
その奥で――何かが動いていた。
重く、鈍く、異様な影。
自然のものとは到底思えない歪んだ輪郭。
奴らは眠ってなどいなかった。
待っていたのだ。

レン「コンパス」
「光は絶対に使うな。奴らは光に反応する。ここがこんなに暗い理由だ」

リベット
「了解。モーターは冷えてる。火花も熱も出てない」

わずかな音さえ、今や雷鳴のように響いた。
駆動装置の唸りが、まるで墓地を横切る轟音に聞こえた。

彼らは奇妙なアーチの下を通過した。
骨のように歪んだ構造が、天井からかろうじてぶら下がっていた。
その下を抜ける瞬間、レンはそれがかつて照明器具だったと気づく。
折れ曲がった長い管が転がり、背後の壁は焼け焦げていた。
何かがここを襲ったのだ。

リベット
「照明設備……人工照明があったんだ、かつては。で、それを何かが壊した」

ピクセル
「だろうね。あの化け物ども、光が嫌いなんだ。まず最初に狙ったのがこれだったんだろうな」

さらに奥へ進むにつれ、壊れた構造物が次々に現れた。
壁際には小さなプラットフォームが点在していた。
潰れ、ねじれ、まるで巨大な力で押し潰されたかのように。
いくつかは溶けかけたパネルや折れたアンテナを残していた。

エコー
「通信ステーションだ。設計が一致してる。
損傷の具合から見て……あの化け物たちは、これも狙っていたんだ。音と光を出すものすべてを」

カートは止まることなく、進み続けた。

レン「コンパス」
「調査しても意味はない。もう何も残ってない。
立ち止まったら、それこそ奴らを呼び寄せる」

空気が冷たくなった。
そして重くなった。
レールを伝って微かな振動が走る――
カートのものではない。
遥か先、もっと深い場所から。
音ではなく、胸の奥に響く圧力。
まるで、地の底で眠る何かの心音。

スフィンクスはノートを抱えて、言葉ひとつ発しないまま座っていた。
崩落以降、彼は沈黙を貫いていた。
時おり壁を見つめ、そこに何も刻まれていないにもかかわらず、何かを読もうとしていた。

スカイはカートの後方に座り、支柱を握る手に力がこもっていた。
震えてはいなかったが、指の関節は白く浮き出ていた。

スカイ
「……嫌な感じがする」
「静かすぎる。この場所全体が、息をひそめてるみたい」

誰も異論を唱えなかった。

カートは大きな交差路――あるいはその残骸――を通過した。
天井の一部が崩落しており、側道は瓦礫で埋まっていた。
そこにも破損した機材が散乱していた。
半ば埋もれた端末が一度だけ点滅し――そのまま沈黙した。

リベット
「まだどこかから微弱電源を受け取ってるわ。コンデンサーの残電荷かも」

ピクセル
「で、それもすぐに消える。
ここじゃ、物事が消えるのは一瞬だ」

カートがガタンと揺れた。
レールの破損部分を通過したのだ。
リベットが速度を落とし、自作の簡易支持台で慎重に進ませる。

レンが前方をスキャンする。
裂け目はさらに深くなっていた――
カート1台がまるごと呑まれても不思議じゃない。

その時――裂け目のひとつで、また何かが動いた。

今度は這っていなかった。
滑っていたのだ。
黒い肢体。骨のない、長く、濡れた触手が、
上へと伸び――また闇へと消えた。

エコー
「……見てる」
声がかすれた。

レン「コンパス」
「急ごう。こいつらの領域は早く抜ける」

リベットがモーターにわずかに力を与える。
だが音を立てないよう、最大限に慎重に。

前進するたび、命を賭けて綱を渡っているようだった。

そして――トンネルが変化した。

壁が広がり、レールは曲がりながら、大きな空間へと繋がっていた。

何かが近い。
未知の何かが。

だがそれを目前にして、温度が急激に下がった。
氷水に浸かったような感覚だった。

スカイ
「……あそこにあるもの、ただ冷たいだけじゃない」
「……古いのよ。信じられないほど、古い」

レンが再び手を上げた。
カートはほとんど停止するまで減速した。

その先に広がる影――
それはただの暗闇ではなかった。

それは密度を持った、意志ある影だった。

[14] 第14章:崩落

トンネルの先は完全に塞がれていた。
巨大な岩、ねじれた金属、鋭く裂けた石。
折れた肋骨のように重なり合い、闇の中に放置された死体のようだった。

ピクセル
「これで終わりか……」
彼は苦々しくつぶやいた。
「まるで誰かが、あるいは“何か”が、わざと通路を埋めたみたいだ」

チームは無言でカートから降りた。
最初に前へ出たのはサンダーだった。
手袋越しに、最も近い岩肌を静かになぞる。

サンダー
「幅いっぱいに崩れてるな。これじゃ、どかせねぇ。ギッチリ詰まってる」

エコー
「ドリル……持ってきてないよね」
彼はアンテナをいじりながら、不安げに言った。

その時、リベットが身体を伸ばし、鋭い声で言った。
意志の炎が宿っていた。

リベット
「エクソスーツがある。ピクセルにはマイクロチャージもある。
突破するわ。慎重にね――ちょっとでも間違えたら全部崩れるから」

マンバ
「“慎重に”ね」
黒く脈打つ菌糸の塊を指差して鼻で笑った。
「この場所、ほとんど崩壊寸前よ。菌が石を内側から食ってる。時間はないわ」

レン「コンパス」
「だから急ぐんだ」
声に切迫がこもった。
「リベット、上層の岩を剥がしてくれ。ピクセル、チャージ設置――破壊じゃなく、精密にな。
他のメンバーは周囲を広げろ。始めるぞ」

エンジニアとハッカーが即座に動き出した。

リベットはパワードスーツの補助を受けながら、まるで機械のような正確さで岩を持ち上げていく。
サンダーとシェイドは手作業で外縁の瓦礫を掘り出し、空間を広げた。
誰も口をきかなかった。
ひとつの音が、何倍にも響く。

ピクセルは巨大な岩の隣でひざまずき、小さなチャージをふたつ設置した。
コードを引いて、レンとスカイに目をやる。

ピクセル
「準備完了。低出力だけど、爆発は爆発。伏せて」

レンがうなずいた。
全員が身をかがめ、耳をふさぐ。

爆発は音よりも、身体の中で“割れる”ように響いた。
胸の奥で何かが砕ける感覚。
石が割れ、空気が粉塵に満たされる。

その前に、リベットがもう突入していた。
パワードスーツが唸りを上げ、砕けた岩を一つずつ取り除いていく。

石がきしむ音。金属が響く音。
目は霞み、腕は痛み、汗が目にしみた。
空気が重くなった――まるでトンネルそのものが、彼らを見ているかのようだった。

ドック
「休憩だ」
眼鏡の曇りを拭いながらつぶやく。
「限界が近い」

スカイが手を上げ、同意を示す。
メンバーはその場に崩れ落ちた。
誰も意図せず、自然と――かつてのチーム構成に分かれていた。

だが、レンだけは座らなかった。
彼は、空いたばかりの隙間へと歩み寄る。

瓦礫の奥に、狭い裂け目が開いていた。
その先には、ただの黒――だが冷たい風が彼の頬を撫でた。

そこには何かがある。
空間が。
部屋が。

リベットが再びスーツのコントロールに手を伸ばしかけた、その時――
空気が、変わった。

遠くから、細く、鋭く、しかし速く近づいてくる音。
金属が石を引きずるような、甲高い金切り音。

次の瞬間、床が震えた。

サンダー
「下がれ!」
声が飛んだ。

誰もが動こうとした。
だが――遅かった。

瓦礫の山が、音もなく崩れた。
爆発ではなく――ただ、重力。

床が抜けた。
石が、金属が、闇へと崩れ落ちていく。

レンは飛び出した。
誰かの悲鳴が響いた――リベットだ。

彼は彼女に手を伸ばした。
掴もうとした。
だが――

落ちた。

石。塵。金属の悲鳴。
世界が、彼の足元から裏返った。

スカイ
「レンーーーッ!」

スカイの声が、闇を切り裂いて響いた。

[15] 第15章:深部での目覚め

レン「コンパス」ウェイランドは、息を呑んで目を覚ました。どれほどの時間が経っていたのか分からない——数分か、数時間か、それとも一日か。身体全体が鈍痛を訴え、まるで乱暴に解体されて無理やり縫い直されたようだった。口の中には鉄の味が広がり、こめかみを何か温いものが流れていた——血か、それとも水か、判別できなかった。

反射的に赤外線ゴーグルを外し、カチリという静かな音とともに折り畳んでサイドポーチにしまった。そしてようやく気づく——完全な闇ではなかった。

かすかな光が洞窟全体に揺らめいていた。周囲に浮かび上がったのは、蒼白く緑がかった笠をもつ巨大なキノコたち。その茎は神経のように這う生体発光で脈打ち、頭上の崩れかけた石造りのアーチや、足元の瓦礫を幻想的に照らしていた。菌糸に覆われた太い幹、霧のような空気。空間そのものが、じっとりと濡れた生き物のようにレンの肌にまとわりついてくる。

そのとき、水音がした。正確には、滝というよりも、静かに絶え間なく石に当たる水滴の音。呼吸のように、深く、古びたリズム。

レンは地面に手をついて、身体を起こした。肋骨に痛みが走り、歯を食いしばって、近くの菌類の柱に手をかける。骨は折れていないようだったが、全身が悲鳴を上げていた。呼吸を整えようとして、むせた。

空気はただ湿っているだけではなかった——生きていた。胞子が埃のように舞い、鼻腔を満たす。そこには腐敗と誕生の匂いがあった。太古の命が、音もなく脱皮するような匂い。

霧の中から、声が響いた。

「レン? 無事か?」

かすれ、焦りに満ちた声だった。

「……かろうじてな」

輪郭が、霧の中から浮かび上がる。記憶の断片のように。最初に近づいてきたのはドックだった。顔色は悪いが、意識ははっきりしている。ひざまずいてレンを支える。

その後ろにはエコーが現れた。額に深い切り傷、ヘッドセットは片側が千切れかけていた。スフィンクスは肘を押さえながら足を引きずっているが、鋭い目は周囲を見逃さない。そして最後に、瓦礫の下からリベットが這い出てくる。エクソスーツは火花を散らしていたが、骨組みはまだ耐えていた。

「全員……無事か?」レンが呻くように訊いた。

「表面的な怪我だけだな。内出血もなさそうだ。運が良かったよ」ドックが応える。

リベットが辺りを見渡す。

「待って……スカイのチームは? いない……」

空気が凍った。

スカイ、サンダー、マンバ、シェイド、ピクセル——その姿はどこにもなかった。声も、通信も、まるで最初から存在しなかったかのように。

レンは手元の端末に手を伸ばし、ビーコンを確認した。——ノーシグナル。静寂だけが返ってくる。

「崩落で別の場所に投げ出されたんだろうな」スフィンクスが呻く。

「あるいは……もっと深くへ」エコーの声は、かすれていた。

リベットがマスクを点検する。髪の中央に細い亀裂が走っていた。

「空気が直接入ってる……もう吸ってるわよ、これ」

エコーとスフィンクスのマスクも破損していた。ドックが恐る恐る外しながら言った。

「我々全員、すでに吸い込んでる。これが幻覚性胞子なら……影響が出るのはこれからだ」

沈黙。

レンは唇を引き結び、濃霧が足元で蠢くのを感じた。

「スーツの密閉は……?」

「もうダメだ。フィルターも破損してる」リベットが即答する。

ドックは低く呟いた。

「この生態系が哺乳類に敵意を持っていないことを祈るしかないな」

遠くで、微かな光が脈打っていた。電子ではない。生物の光。——呼吸のような。

「トロリーは潰れて使えない。進むしかないな」レンが言った。

スフィンクスが続けた。「そして上への出口も……もうない」

「なら、前に進む」レンが宣言する。

選択肢は、なかった。

リベットはエクソスーツの回路を繋ぎ直し、最低限の可動力を確保した。ドックは全員の脈や瞳孔をチェックし、急性中毒の兆候を探す。今のところ異常はない。

エコーは通信装置の残骸を調整し、空気中の熱源や移動反応を探る。

「反応なし……生命反応も、通信も……死の静けさだ」

「いや、これは『休眠』だ」スフィンクスが呟く。「死んだわけじゃない」

レンは二本の石柱の隙間に足を踏み出した。そこには深い霧が漂い、まるで呼吸する壁のように行く手を閉ざしていた。

「仲間を見つける。あるいは出口を探す。どちらにせよ……進むしかない」

彼は全員と視線を交わした。

言葉はもういらなかった。

誰もが、黙って頷いた。

彼らは歩き出した。キノコの森の下を。光の代わりに、呼吸するように淡く脈打つ菌糸の明かりの中を。

背後にあるのは、崩れ落ちた通路と——戻れない過去。

彼らの前に広がるのは——沈黙の胎内、未知という名の闇だった。

[16:1] 第16章 生ける死者 ― パート1

「ベース? スカイ? 応答してくれ――誰か!」

 エコーの声が無線から虚空に響き、静寂を切り裂いた。腰に装着されたラジオをもたつきながら操作する彼の声には、焦燥が滲んでいた。

 ……沈黙。

「……駄目だな。」
「もう、俺たちだけだ。」

 スフィンクスがゆっくりと体を回し、周囲を取り囲む巨大な菌類の柱を見渡した。

「ここは……ただの地下深くじゃない。何かが違う。墓だ。いや――子宮だ。」

 誰も言葉を返さなかった。自分たちがどれほど深く落下したのか、戻れる道があるのか、それすら分からない。
 崩落の衝撃は、今も彼らにまとわりつく粉塵のように体を離れなかった。空気は重く、湿っており、腐敗の臭いと……何かの呼吸のような気配を帯びていた。

 レン「コンパス」ウェイランドが一歩前に出た。
 菌糸の森はあらゆる方向に広がっており、まるで忘れ去られた聖堂にそびえる化石の木々のように立ち尽くしていた。割れた岩が地面から牙のように突き出し、頭上からは蛍光を放つキノコの傘が淡い光を落としていた。

「偵察に出る必要があるわ。」

 リベットが言った。彼女は屈み込み、外骨格スーツのパネルを開いて焼け焦げた配線を選り分けながら、手際よく回路を再接続していた。

 顔には煤が付着し、額には擦り傷があった。それでも彼女の瞳は揺るがず、決意に満ちていた。

「どこかに出口があるはず……あるいは、あの遺物を引き寄せた何かが。ここでじっとしている選択肢はないわ。」

 レンは頷いた。

「密集して進もう。足元に気をつけろ。地面は脆く崩れやすい――それに、下にあるのは岩と胞子だけじゃない。」

 その言葉の続きを彼は言わなかった。

 ――動いた。

 苔の一片の向こうに、何かが揺れた。
 ひらめくような影。速くはない。不安定な動き。

 レンの手が素早く上がった。

 ……沈黙。

 全員がその場に凍りつく。

 何かが近づいてくる。
 早くもなければ、騒がしくもない。
 だが――おかしい。

 まるで暗闇そのものが、彼らに向かって動いてくるかのようだった。

「……あそこだ。」
 エコーが囁いた。

 レンは手首のランプをその影に向けて照らした。

 ――現れたのは、人間ではなかった。

 菌類の傘の下から姿を現したその存在は、人型ではあるが、その限りだった。

 巨大で膨れ上がったキノコの傘が頭部を覆い、糸状の菌糸や灰色のカビが髪のように垂れている。
 体は合成繊維の切れ端――制服の残骸か、人工皮膚のような布で不規則に覆われていた。

 四肢は異様に長く、関節は鋭く尖り、指先は鉤爪のように湾曲して地面を引っかいていた。

 そして全員の右手には――
 金属製の注射器が光を反射していた。

 ドックが目を細めた。

「注射器だ……巨大な。中身は……何かの液体。」

「こいつら、歩く菌類だ。」
「比喩じゃない。文字通りだ。」

「神よ……なんてことだ。」
 スフィンクスが息を呑み、反射的にレンの背後に身を寄せた。

 それらはゆっくりと前進してきた。声も、音も発さず。
 まるで空気に運ばれるかのように。

 ――そして次の瞬間、一体が急に方向を変えた。

 それは突如として横に飛び出し、エコーに向かって猛然と突進してきた。

 誰も反応する間もなく、骨のように痩せた手が彼の手首を掴む。

 注射針が前腕に深々と突き刺さった。

「うああああああっ!」
 エコーが絶叫した。

「伏せろ!」
 レンが怒鳴る。

 リベットが跳びかかり、エコーのベストを掴んで引き戻そうとする。

 だがそのクリーチャーは執拗にしがみつき、注射器のプランジャーをじわりと、しかし確実に押し込んでいった。

 レンは躊躇しなかった。

 足元の瓦礫から錆びた鋼管をつかみ――
 一閃。

 鈍く湿った音が響き、生物の脇腹を直撃する。

 それはぐらりと揺れてエコーの腕を離した。

 リベットが彼を引きずり、体で彼を庇うようにして退いた。

 注射を打ち終えたその生物は、満足げに震えながら後退していった。

 だが――他にもいた。

 二体。三体。霧の中からよろめきながら現れた。
 注射器を掲げたまま。

「迎撃!」
 レンが叫ぶ。

 彼が突進した。

 リベットがそれに続く。外骨格スーツが轟音を上げて駆動する。

 彼女の一撃は、クリーチャーの胸部を粉砕し、暗い裂け目へと吹き飛ばした。

 別の一体がレンに迫る。
 彼はその注射をかわし――

 鋼管を振り上げ、腕をへし折った。

 注射器が地面に転がり、震えながら停止した。

 レンは一瞬の隙も与えず――
 それを踏みつけ、動きを封じると、

 頭部を鋼管で打ち砕いた。

 胞子の傘が裂け、黒い液体が噴き出し、乾いた悲鳴が空間にこだました。

 さらに数体が接近してくる――

 だがレンは、もう準備ができていた。

 彼は再び打ち込んだ。
 そして――さらに一撃。

 注射器が、砕けた骨のように飛び散った。

 武器を失ったマイコゾンビたちは、動きを止めた。
 どこか戸惑ったように、足取りを鈍らせ――

 やがて一体ずつ、ゆっくりと背を向け、
 胞子の光に満ちた闇の中へと消えていった。

[16:2] 第16章 生ける死者 ― パート2

菌糸の森が、再び静寂に沈んだ。
 残されたのは、荒く、不規則な彼らの呼吸音だけだった。

 エコーはリベットの腕にもたれかかり、注射針が突き刺さった前腕を必死に押さえていた。顔は蒼白に染まり、唇は小刻みに震えている。
 穿たれた傷口からは、灰色の粘液がにじみ出ていた。緑色の斑点が混じった、重たく不穏な液体。

 ドックはすでに動いていた。

「横にさせろ。優しく。……見せてくれ。」

 リベットは彼を平らな石の上へとそっと寝かせた。ドックは手早く医療キットから手袋を取り出し、ライトで患部を照らした。

「普通の注射じゃないな……」
「針が太い。拡散用だ。組織の腫れを見ろ。何かを広げようとしている。」

「感染か?」
 レン「コンパス」ウェイランドが低く尋ねた。

「かもしれない。だが……もっと悪いものの可能性もある。これは……細菌の挙動じゃない。速すぎる。まるで――意図的だ。」

 エコーが身を震わせ、うめき声を漏らす。

「……平気……大丈夫……」

「いや、大丈夫じゃない。」
 ドックが鋭く言い放った。
「筋肉に刺さったのがまだマシだった。静脈だったら……中身が血流に入ってたら――」

「止められるの?」
 リベットが遮るように問いかけた。声には鋼の緊張が走っていた。

 ドックは一瞬迷った末、広域抗真菌薬と強力な抗炎症剤を注射した。

「時間を稼いでいるだけだ。」
「でも早く答えを得なきゃいけない。」

 スフィンクスは数メートル離れたところで腕を固く抱えていた。あの生物たちが姿を消してから、一言も発していなかった。

「……あれはただの獣じゃない。」
 彼はようやく呟いた。

「秩序があった。道具を持っていた。標的を選んでいた。あれは偶然じゃない。」

 レンは、マイコゾンビたちが消えていった暗闇の奥を見つめた。
 闇の方もまた、自分たちを見返しているように思えた。

「退いていった……なぜだ?」

「試しているのかもな。」
 ドックが答える。
「あるいは警告。あの注射は殺すためじゃなかった。」

「変えるため……」
 スフィンクスが囁く。
「感染させて、適応させて……転化させる。」

「確かめる気はないわ。」
 リベットが低く呟いた。彼女はエコーのそばに身を寄せ、外骨格の肩プレートを調整して、彼の体を覆った。

「もし奴らが増援を連れて戻ってきたら――彼は動けない。」

 レンは仲間たちを振り返る。

「再集結する。安全な場所を見つけて、周囲を確保。光源は最小限に。絶対に必要な時以外は使わない。」

 彼は一瞬間を置いた。

「そして――もう二度と分かれて行動しない。絶対にだ。」

 全員が頷いた。
 朦朧としながらも、エコーは奥歯を噛みしめ、小さくうなずいた。

 周囲のキノコの傘が、まるで呼吸するかのように微かに脈動していた。
 あの存在たちは、その光の中へと、胞子と岩の隙間にある影へと溶け込んでいった。

 だが、彼らの気配はまだ残っていた。
 ――沈黙の中に。
 ――レンの鋼管に付着した、滴る黒い粘液に。
 ――そして、いまなお地面に転がる注射器に。半分だけ満たされたまま、何かが生きているそれに。

 ドックは注射器とその他のサンプルを密封容器に収め、それをベストに取り付けた。

「後で調べる。……後があるなら、な。」

 空気が静まり、冷たさを増していく。

 そして遥か遠く――この洞窟網のどこかの奥で――

 ――湿った音が、反響した。

 ずるり。
 こすれ。
 そして……沈黙。

[17:1] 第17章 裏切り ― パート1

「……行ったのか?」

 スフィンクスの声は震え、ほとんど聞き取れないほど小さかった。彼の視線はまだ、マイコゾンビたちが姿を消した闇の奥を見つめていた。

「……そのようだな。」
 ドックが答えたが、その声には確信がなかった。アドレナリンはすでに引き、残ったのは不安と重苦しさだけだった。

 レン「コンパス」ウェイランドは敵の後を追わなかった。目は依然として黒い闇を見据えていた――だが、真の脅威はそこにはなかった。

「――エコー!」
 彼は振り返り、倒れている通信士に駆け寄った。

 エコーは石にもたれかかり、荒く浅い呼吸を繰り返していた。腕には、折れた注射器が突き刺さったままだった。

 ドックはすでに彼の傍にひざまずいていた。

「見せてくれ。動かないで。」

 エコーが微かにうめく。

 ドックは注射針を引き抜こうとした――その瞬間、凍りついた。

 濃い藍色の網状のものが、エコーの皮膚の下に広がっていた。まるで割れたガラスを通るインクのように、静脈に沿って広がっていく。
 血が、黒く変色していた。

「血が……変質してる。」
 ドックが低く呟いた。

 エコーの顔色は真っ白で、額には冷や汗が滲んでいた。

「解毒剤なんて持ってない! 何も……!」
 リベットが叫んだ。声には焦燥と怒りが滲み、奇跡を探すように洞窟内を見回した。

 ドックは無言で顎を引き締め、医療キットからガーゼとベルトを引き出した。

「……拡散を抑える。」

 彼は蛇に噛まれたときの応急処置のように、注射箇所の上部をきつく縛った。

 ――効果があるかどうか、誰にも分からなかった。

 エコーは身を震わせ、呼吸が速くなる。唇の色も灰色に近づいていく。

「いったい何を注射されたんだ……?」
 スフィンクスが眼鏡を両手でいじりながら呟いた。

「毒か? 胞子か? ウイルスか?」

 レンは足元を見回す。いくつかの注射器が瓦礫の中に落ちていた。どれも巨大で、青白く光る液体で満たされていた。
 マイコゾンビたちが落としていったものだ。

 彼はそのうちの一本を慎重にバレル部分から持ち上げた。

「調べる必要がある。持っていこう。」
 ドックがすぐに言い、残りの注射器も丁寧に密封コンテナに収め、背負ったパックに固定した。

 リベットはエコーのそばにしゃがみ、片腕を彼の肩に回して、まるで生きた盾のように体を寄せた。

 ドックが脈を測る。表情が陰る。

「脈が上がってる。……速すぎる。」

 誰も口にしなかったが、全員が思っていた。
 ――時間がない。

 レンは拳を握りしめ、関節が音を立てて鳴った。

 ここまで生き延びてきたというのに――
 こんな、暗闇に潜む菌毒で終わるなんて?

 ……いや。
 そんな終わり方、認められない。

 そのとき――

 ざわり。

 「伏せろ。」
 レンが小声で囁いた。

 全員が咄嗟に岩陰へ身を隠す。スフィンクスとドックはエコーを引きずり、近くの石の陰へと運んだ。

 恐怖の中を切り裂くように、ひとつの疑念が頭をよぎる。

 ――奴らが、戻ってきた?

 菌糸の幹の間から人影が現れた。

 レンは目を細めて確認する。

 その姿――見覚えがある。

 スカイラー「スカイ」モントゴメリーのチーム。

 一瞬だけ、胸の奥に希望の光が灯る。

「いたぞ!」
 スカイが叫んだ。その声には、緊張と怒気が滲んでいた。

「マスクなしで? ……そいつの腕、どうなってるんだ!」

 レンは一歩前に出る。状況を説明しようと、頼ろうと、話しかけようと。

 ――だが、次に放たれた言葉は、銃弾よりも深く刺さった。

「感染してる! 撃て!」

 銃声が、即座に響いた。

[17:2] 第17章 裏切り ― パート2

銃弾が、レン「コンパス」ウェイランドたちの頭上を裂いて飛んだ。
 それらは菌糸の森を引き裂き、キノコの傘を吹き飛ばし、太い茎を真っ二つに裂いた。
 一発ごとに胞子が爆発し、霧は濃くなっていく。蛍光の粉塵が、毒の雪のように宙を漂った。

「撃つな!」
 レンが叫ぶ。

「俺たちは感染してない!」

 返事はなかった。鳴り響くのは、武器の轟音だけ。

 リベットは身をかがめ、エコーの体を庇っていた。
 彼はほとんど動かず、浅く荒い呼吸をしている。腕の包帯はすでに血で濡れ、皮膚の下の血管は緑黒く変色し、不気味な色で脈打っていた。

「スカイ!」
 レンが叫び、隠れていた岩陰から一瞬だけ顔をのぞかせる。

「誤解だ! 俺たちは敵じゃない!」

 ……一発の銃声が答えた。

 それは外れたが、ほんの数センチの差だった。

 レンは岩陰に戻り、荒く息を吐いた。

「……言ってみたな。」
 リベットが背を向けたまま呟く。

「……もう奴らの中では結論は出てる。」

「違う。」
 レンの声は低く、だが揺るがなかった。怒りはなかった。ただ、確かな覚悟だけがあった。

「彼らは……怖いんだ。俺たちがその立場だったら――同じことをしたかもしれない。」

「今の彼らには、俺たちの声は届かない。」
「彼らの頭の中じゃ、もう俺たちは“死んでる”んだ。」

 菌糸の森の向こう側――サンダーとシェイドが、無表情に一歩一歩進んでくる。機械のような正確さで、隙間も逃げ道も与えずに。

「……包囲の動きだな。」
 ドックが冷静に言う。

「このままじゃ囲まれる。」

「でも出たら……撃ち抜かれる……!」
 スフィンクスが囁く。声は震えていた。

 一発の銃弾が頭上の岩に当たり、石片が雨のように降り注いだ。

「陽動が必要だ!」
 リベットが鋭く言い、周囲を見渡す。

 だが、天井はあまりにも高い。15メートル、いや20はあるだろう。崩すには届かない。

 そのとき――レンの目に映った。

 巨大なキノコ――木の幹より太く、どう見ても不安定だ。

「あれだ。」
 レンが指さした。

「倒せば、目を引ける。」

「了解。」
 リベットはすでに動き出していた。

 手首に装備されたカッターを起動し、身を低くして十字砲火の下を疾走する。
 巨大キノコの根元に到達すると、灼熱の刃を茎に突き立てた。

 蒸気が立ち上る。繊維が焼け、ひび割れていく。
 彼女は一気に刃を滑らせ、芯を切断していった。

「……倒れろ……!」

 歯を食いしばりながら、最後の一撃を加える。

 ――そして。

 鈍く、湿った音を立てて茎が折れ、巨大な傘が攻撃者側へと傾いた。

 胞子と肉塊が空中に舞い、洞窟に轟音が響き渡る。

「今だ!」
 レンが叫ぶ。

 一斉に走り出す。

 ドックとスフィンクスがエコーの両脇を支え、彼を運ぶ。

 リベットは膝をついて防御モードを起動――外骨格から装甲板が展開し、背面を覆う曲面シールドが形成された。

 銃弾がその装甲に次々と当たり、鈍く金属的な音を立てて弾かれる。

 だが――持ちこたえた。

「急げ! 援護は任せて!」
 リベットが叫ぶ。

 チームはその盾の下を疾走した。
 レンが先頭に立ち、瓦礫をどかし、前方の進路を切り開いていった。

[18] 第18章 脱出

再び銃声が闇を裂いた。

 弾丸の一つがレン「コンパス」ウェイランドの肩をかすめ、スーツを貫き、その下の皮膚を焼いた。

 跳弾が叫ぶように飛び交う中、リベットの装甲シールドの下で、レンたちはさらに奥へと走り抜けていく。
 この装甲――考古学調査中、毒矢や罠から仲間を守ったあの時と同じように、今は銃弾から彼らを守っていた。

 巨大なキノコの傘が、影の乱舞となって視界をかすめる。

 背後では、スカイラー「スカイ」モントゴメリーのチームの怒声が、まだ彼らを追っていた。

 レンが先頭を駆け、菌糸の柱と鍾乳石の間を縫うように進路を切り開く。
 その後ろで、ドックとスフィンクスが、かろうじて立ち続けるエコーを支えながら必死に足を運んでいた。
 そして殿にはリベット――装甲は悲鳴をあげていたが、崩れることはなかった。

 ――そのとき、轟音。

 水の流れる音が聞こえ始め、それは瞬く間に耳をつんざくほどの轟きに変わっていった。

 湿り気を帯びた空気が濃さを増し、彼らはまるで墨の嵐の中を走っているようだった。

 視界はぼやけ、
 心臓は怒涛のように脈打ち、
 耳の奥では血が轟いていた。

 ――そして、足元が消えた。

 地面が突然なくなったのだ。

 レンのすぐ後ろを走っていたリベットは、一瞬だけ彼の姿を見た。
 そこにいたはずの彼が――

 一瞬で消えた。

「気をつけ――!」
 ドックが叫びかけたその瞬間――

 遅かった。

 五人全員が、次々と奈落の縁を越えた。

 彼らは落下した。

 岩棚に激突し、
 苔で滑る岩肌を転がり、
 何も掴めずに手を伸ばしながら。

 世界がぐるぐると渦を巻き、すべての感覚が混ざり合う。

 ――そして、水。

 氷のように冷たい。
 黒い。
 耳をつんざく轟音。

 レンは水中に引きずり込まれた。
 地下の川の冷たい流れが、彼の全身を飲み込んだ。

 上下左右の感覚が消え、どこに向かえばいいのかすら分からない。

 暗闇の中、ぼんやりと人影が揺れた――
 腕。
 胴体。
 仲間たちだ。誰一人として抵抗できていない。

 彼は必死に水面に浮かび上がり、一度だけ息を吸った。

 そのすぐ近くで、リベットの声がした。

 彼女は浮かんでいた。外骨格スーツの「浮力保持システム」が作動していたのだ。
 かつて、彼女は水没した墓所で溺れかけたことがある。
 それ以来、どんな時でもこの機能を搭載するようにしていた。

 だが――この地下河川は、そんなことはお構いなしだった。

 岸がどこにあるのか、
 抜け道があるのか、
 安全な場所がどこにあるのか、
 ――誰にもわからなかった。

 流れは加速し、彼らをさらに深くへと引きずっていく。

 レンは手を伸ばした。
 岩でも、段差でも、何か掴めるものを――

 だが、触れたのはぬるぬるとした苔に覆われた岩だけだった。

 血が飛沫に混じり、
 肺が焼けるように苦しくなっていく。

 力が抜けていく。
 意識も遠のく。

 そして――最後の波が襲いかかった。

 それは全身を押し潰すような衝撃で、

 ――レンは再び水中に沈んでいった。

(……これで終わりか)

 そんな言葉が、レンの意識にちらつく。

(弾丸じゃない……誰にも見つからない黒い川で)

 彼は沈んでいく。

 死と同じくらい冷たく、
 そして無関心な――

 静寂の底へと。

[19] 第19章 岸辺の救済

氷のように冷たい地下水流が、疲弊しきった五人の探検者たちを闇の中へと投げ込んだ。
 彼らの体は、まるで嵐の中の流木のように翻弄され、水を飲み込み、むせ返り、浮かび上がろうと必死にもがき続けた。

 ――そして、ついに。
 激流が少しずつ緩やかになり始めた。

 彼らは岩に覆われた岸辺へと叩きつけられた。頭上には広大な洞窟の天井が広がっていた。

 最初に打ち上げられたのは、レン「コンパス」ウェイランドだった。
 咳き込み、水を吐き出しながら、彼は手探りで前方へ這い進んだ。指先が荒れた岩肌をかすめていく。

「……生きてるか?」
 彼は闇の中へかすれた声を放った。

 重い呼吸音が、それに応えた。

「……たぶん。今のところは……まだ息してる。」
 最初に答えたのは、リベットの震える声だった。

「……ここにいる。」
 スフィンクスが立ち上がろうとしながら言った。
「……エコー? ドックは?」

「全員無事だ。」
 ドックのくぐもった声が届く。彼はエコーの体を支え、座らせていた。

 エコーはうめき声を上げながら肩を押さえていた。激流で体力はほとんど失われていたが、意識はまだあった。

 やがて、チーム全員が岸へと集まった。

 全身ずぶ濡れで、打撲だらけ、泥と汚れにまみれていた。
 それでも――生きていた。

 彼らを包むように、不気味な静寂が広がっていた。
 聞こえるのは、石に滴り落ちる水の音だけ。
 そして背後――彼らを銃弾から救ったあの川の微かな流れ。

 もう銃声はない。
 声もない。

 どうやら、スカイラー「スカイ」モントゴメリーのチームは遥か後方に置き去りになったようだった。

 レンは大きく息を吐いた。
 裏切りの記憶はまだ胸を焼いていたが、今は――生き延びることが最優先だった。

「進まなきゃならない。」
 彼は洞窟の闇を見つめながら、静かに言った。

 ここは、何かが違った。

 発光するキノコはほとんど見当たらず、わずかに灯る薄ぼんやりとした光が、丘のように緩やかな地形を遠くに浮かび上がらせていた。

 その先にあるのは――何もなかった。

 ただ、生きているかのように思えるほど濃密な闇。
 何かがこちらを見つめているような錯覚。

 彼らは互いに身を寄せながら、慎重に歩を進めた。誰も取り残されることを望まなかった。

 ひとつひとつの足音が、高く反響する天井の下に鳴り響く。
 まるで洞窟そのものが、彼らの存在を聞き取っているかのようだった。

 ドックは不安げに周囲を見回しながら、まるで命綱のように医療パックを胸元に抱えていた。

 静寂が、神経を削っていく。

 彼は小さく呟いた。

「嫌な予感しかしない……。何が潜んでいてもおかしくない。
 あのクリーチャーたちと同じだったら――覚えてるか?」

 その目には、忘れがたい記憶の影がちらついていた。

 レンは無言で頷いた。
 ドックは、間違っていない。

 全員が動きを止め、耳を澄ませる。
 何か、どんな小さな気配でも感じ取ろうと。

 闇が、まるで息を潜めているようだった。

 リベットの鼓動が耳の奥で轟く。

 エコーは浅く、苦しげな呼吸を繰り返し、動くのもためらっていた。

 秒針のように、時間がじわりと流れていく。

 ……何も起こらない。

 聞こえるのは、ぽつりぽつりと水が落ちる音だけ。

 あまりに完全な沈黙が、まるで轟音のように彼らの頭に響いた。

 ドックは無意識のうちに息を吐いた――その指が、わずかにライトのスイッチに触れた。

 光が、突然走った。

「ダメだ、光をつけるな!」
 レンが低く鋭く叫び、ドックの腕を掴んだ。

 ……だが、遅かった。

[20] 第20章 闇の中の影

一条の細い白い光が、闇を切り裂いて走った。
 照らされた先には、奇怪な瓦礫の山が無秩序に積み重なっていた。
 一瞬だけ、何かが光を反射する――金属のような、磨かれた表面。

 そして――すべてが変わった。

 地面の下から、やわらかく不気味なざわめきが広がった。

 ――影が、動き始めた。

「……なんだ、あれは……?」
 スフィンクスが囁くように言った。

 形を持たない塊が、闇の中でざわつき、蠢いていた。
 生きた闇の塊が、トンネルで見たあの時のように、こちらへと迫ってくる。

 ドックは立ち尽くしていた。手には懐中電灯。
 動けなかった。

 その腕に、冷たく、しかし実体のある何かが触れた。
 ――それは動いていた。

 声を上げる間もなかった。

 闇の奥から、黒い触手のようなものが何十本も伸びてきた。
 それは手足のようでいて、まるで空腹を抱えた意志を持つようだった。

「うわあああああっ!」

 ドックの絶叫が洞窟に響いた。

 彼は反射的に後ずさりするが、手にしていた懐中電灯の光が彼を“完璧な標的”にした。

 影が一斉にドックを目指して襲いかかってくる。

 レンと他の者たちにも、ようやくその正体が見えた。

 ――捻じ曲がった金属の骨格。
 半壊したロボットの腕と関節。
 それらが、菌糸と有機的な組織で絡み合い、融合していた。

 錆びついた技術と腐敗した生物がねじれながら一体となった、テクノオーガニックな怪物。

 それらは、ひとつの目標に群がっていた。

 ――光。

 ――ドック。

 レンが駆け寄る。

 だが、すでにドックの体の半分が、あのうねる塊の中へと引き込まれていた。

 食われている、というよりは――

 ――吸い込まれている。
 流砂のように。

 リベットとスフィンクスが助けに行こうとする。

「ダメッ! そこ――全体が動いてる!」
 リベットが叫び、スフィンクスの腕を掴んで引き戻した。

 その声がなければ、二人とも踏み込んでいたかもしれなかった。

 エコーが絶望の叫びをあげる。

「ドックッ!」

 レンは引きずられていくドックの腕に絡まる金属の“腕”の一本を掴み、全力で引いた。
 一瞬、進行が止まった――

 だが次の瞬間、力強い引きによって、ドックの体がレンの手から引きちぎられた。

 ドックの懐中電灯が暴れるように動き、断続的に彼の顔を照らした。
 目を見開き、声にならぬ絶叫のまま――

 そして――闇に包まれた。

 黒い塊が、まるで咀嚼するかのように彼を覆い尽くす。

 光は途絶えた。

 バキッ――という破裂音。

 そして、闇。

 ドックの悲鳴は、音ごと切り取られたように消えた。

 最後に聞こえたのは、金属の擦れる音だった。
 それも、闇の奥へと吸い込まれていった。

 ――沈黙。

「……ドック……」

 リベットの声はほとんど聞こえなかった。自分の鼓動で耳が塞がれているようだった。
 誰も動けなかった。

 ――寒気が、彼らの全身を縛りつける。

 仲間であり、唯一の医療担当だったドックが、闇そのものに引きずり込まれた。

 誰もが呆然と立ち尽くしていた。

 エコーは歯を食いしばり、血が出るほど拳を握っていた。怒りが瞳の奥に宿っていた。

「……この……化け物……この忌まわしい存在が……」
 彼は吐き捨てるように言った。

 追うことは――死を意味する。

 スフィンクスは息を荒くしながら、現実を受け入れようともがいていた。
 ――さっきまで、確かにそこにいたはずの彼が、今はもういない。

 リベットは口元を手で覆い、涙を堪えていた。

 レンは拳を固く握りしめ、関節が軋む音を立てた。
 だが彼は、冷静を保った。

 ――今ここで、パニックを起こせば全員が死ぬ。

 彼は息を吸い込み、声を絞り出した。

「……誰も動くな。……光も、もうつけるな。」

[21] 第21章 命をかけた奪還

チームは闇の中に立ち尽くしていた。誰ひとり、息をすることすらためらっていた。

 すべてが明らかになった。
 あの「灰色の塊」は、光に反応するのだ。
 音を立てず、動かず、光を灯さなければ――もしかしたら、助かるかもしれない。

 一瞬……
 また一瞬……
 ――沈黙。

 彼らの鼓動は、足音や囁き声よりもはるかに大きく、洞窟に響いていた。

 レン「コンパス」ウェイランドは耳を研ぎ澄まし、何か、どんな音でもいいから――ドックの声でも、最悪の場合その死を告げる最後の音でも――聞き取ろうと必死だった。

 だが洞窟は、完璧な静寂に包まれていた。

 喪失の苦しみが、胃の奥から上がってくる。酸のように体中を焼いていく。
 本当に、ドックを失ったのか?
 歯を食いしばりすぎて顎が痛むほどだったが、彼は涙を流すまいと必死だった。
 ――まだ、その時じゃない。

 数分が、永遠のように過ぎた。

 ついにスフィンクスが、震える声で囁いた。

「……俺たち、ドックを置いてきてしまった……」

「まだ……生きてるかもしれない。」
 レンが答える。自分でも信じきれない言葉だったが、希望の火を消したくなかった。

「攻撃されてないってことは……もしかしたら、彼はまだ耐えてるかも。」

 その希望は、頼りなくも彼らの心に残った唯一の火種だった。
 彼らは硬直し、耳を澄ませた。

 そして――前方から、かすかなうめき声。

 リベットがレンを小突いた。

「今の、聞こえた?」

 レンは頷いた――が、闇の中では誰にも見えなかった。彼は唇だけを動かす。

「……ドック……彼だ!」

 再びうめき声。弱く、苦しげだが、間違いなく人間のもの。

 ドックは、生きていた。

 言葉もなく、彼らは一斉に前進しかけた――だが足を止めた。
 無謀に突っ込むのは、死を意味する。
 ひとつのミスが、再びあの影を呼び起こす。

 レンが手を上げ、静かに制止の合図を出した。

 彼とリベットが、音を立てぬよう慎重に前進した。
 一歩一歩、視界が暗闇に慣れていく。遠くの発光キノコが、幽かな緑の光を放ち、ようやく輪郭が見える程度だった。

 前方には、金属片、有機物、菌糸が絡み合った混沌の山があった。
 そこに、人間が生きていられるなど到底思えなかった。

 だが、再びうめき声――今度は少し右から。

 彼らは瓦礫の山の間にある狭い隙間を見つけた。身をかがめて通り抜けると、金属の迷宮のような空間に入り込んでいく。

 ついに、レンの目が人影を捉えた。

 ドックだ。

 ぐったりとした体が、歪んだ金属の上に横たわっていた。

 リベットが先に駆け寄る。
 息を殺しながら、彼女はドックの体に絡みついた金属の“腕”――金属と菌糸が絡まった融合体――を慎重にほどき始めた。

 レンも無言で手を貸す。二人は無言の連携で、彼の脚を押さえつけていた破片を持ち上げる。

 ドックが苦しげにうめいた。
 ――だが、それは生きている証拠。

「ゆっくりだ……俺たちが来た。」
 レンが囁く。ドックの背に腕を回す。

「今、助け出す……」

 数分の緊張の末、ようやく彼を瓦礫から引き抜いた。

 スフィンクスとエコーが静かに近づき、彼を小さな開けたスペースへと運んだ。そこには、唯一かすかに光を放つキノコがひとつ――彼らの唯一の灯りだった。

「ドック……聞こえる?」
 リベットが彼の顔に身を寄せて呟く。

 ドックは顔色が悪く、こめかみから血が流れていた。だが、彼の胸は確かに上下していた。

 リベットは声を抑えきれず、短くすすり泣いた。そして彼に抱きついた。解放と安堵の涙が、頬を伝って落ちた。

「……神様……本当にもう……」
 スフィンクスが息を吐き、声を詰まらせながら言った。

「ドック……俺たち、もう……」

 エコーの声も震えていた。

「お前が……死んだと思ってた……」

 ドックは顔をしかめたが、震える手を上げてエコーの肩を叩いた。

「……大丈夫だ……たぶん……」
 彼はかすれ声で言った。

「……信じられない……俺、生きてるなんて……」

 彼は半ば意識が混濁しながらも、背後を手探りして自分の医療パックを探した。
 それを握ったとたん、ようやく僅かに安堵の表情を見せた。

 苦しげな笑みはすぐに顔を歪めたが、それでも他の皆は小さく笑った。
 緊張を和らげる、唯一の瞬間だった。

 エコーは反射的に懐中電灯を手に取ろうとしたが――

 レンがその手首を掴み、首を横に振った。

 今でも、一筋の光がすべてを台無しにしかねなかった。
 彼らはほぼ真っ暗な中で、ドックの状態を確認せねばならなかった。

 幸い、致命傷ではなかった。
 打撲、眉間の裂傷、そして明らかなショック状態。光が消えたあと、あの“闇”はドックを獲物と見なさず、投げ捨てたようだ。

「……あれ、何だったんだ……?」
 スフィンクスが、周囲の腐った金属と菌糸の山に目を向けながら、恐る恐る囁いた。

[22] 第22章 マイコゾンビの秘密

視界がようやく暗闇に慣れ始めたとき、彼らの目に広がっていたのは――
 金属の残骸と菌糸に埋もれた、機械の墓場だった。

 そこはかつて戦場だったかのように、壊れた構造物が丘のようにうねり、点在する発光キノコの翡翠色の光に包まれていた。

「……まるで墓地だな」
 スフィンクスが、掠れた声で言った。

「……機械のための、墓。」

 リベットが数歩後ろを歩いていた。外骨格のサーボが静かに駆動音を立てていた。
 彼女はしゃがみ込み、薄暗がりの中に腐食したロボットの胴体を見つける。関節には白い菌糸が絡まり、まるで寄生植物のように浸食していた。

 慎重に腕の一部を引き抜き、発光キノコの群れの方へ持ち上げて確認する。

「これはただのスクラップじゃないわ……」
 彼女が息を呑むように呟いた。

「確実にロボットの腕部……二足歩行型か、自動作業用のユニット。菌糸がコアにまで入り込んでる。」

 レン「コンパス」ウェイランドが傍らに膝をついた。
 弱々しい光の下でも、その構造は明確だった。機械の骨格――時の流れと微生物の侵食に半ば溶かされていた。

 彼は思い出していた。地下の研究所、忘れ去られた工場……断片的な噂と都市伝説。

「じゃあ、奴らは“生きてる”わけじゃないのか。」
 レンが静かに言った。

「壊れた機械が、菌類に取り憑かれただけ。けど……まるで死者が動いてるみたいだ。」

「マイコゾンビだな」
 エコーが口角を上げ、不気味な笑みを浮かべる。

 ドックは荒い呼吸の中で小さく頷いた。

「まさに……胞子がシステムを侵したんだ……」
 彼はかすれた声で言う。

「もう“見る”ことも“聞く”こともできてない……」

「でも光には反応する――特に鋭いビームに対しては顕著だ。」

「“認識”してるわけじゃない……ただ惹かれてるだけ。炎に飛び込む蛾みたいにな。」

 レンはその説明に、わずかだが安堵の気配を覚えた。
 “マイコゾンビ”という名がつくだけで、得体の知れない恐怖が少しだけ形を持った。
 ――それは、迷い込んだ壊れた機械。光に反応するだけの亡霊。

「だから俺たちがライトを使ったとき、襲いかかってきたのか……」
 彼は言った。

「敵意じゃなくて……ただ光を追っていただけなんだ。」

 彼の視線の先で、リベットが別の装置から菌糸を慎重に除去していた。
 外骨格が低く鳴り、姿勢が変わる。

 彼女は粘着質の根の塊を切り落とし、その下に隠れていた筐体を露わにした。
 中には、複雑に巻かれたコイルがちらりと光を返していた。

「……ねえ、これ……」
 彼女が息を潜めて言う。
「……テスラコイルのアレイに見えない? この巻線の層……」

 五人が一斉に覗き込んだ。

 スフィンクスの眉が跳ね上がる。長く強ばっていた肩の力が、少しだけ緩んだ。

「ロボットの中に……テスラコイル?」

 闇の中でも、皆の顔にわずかな安心の色が浮かぶ。
 無知ゆえの恐怖が、彼らをずっと縛っていたのだ。
 今、そこに“理屈”が存在するというだけで、ほんのわずかでも救われた気がした。

 だが、謎が解けたぶん、新たな疑問も生まれる。

 スフィンクスは周囲の金属屑と沈黙する屍のような機械たちを見回した。

「……ここで、何が起きたんだ?
 まるで、機械の軍団すべてがここに葬られたみたいだ。
 戦争? 事故? それとも……誰かが捨てたのか?」

 レンは山のような瓦礫を見つめる。
 人型アンドロイドに似た形、キャタピラ型、蜘蛛のような脚部を持つもの……
 ねじれたフレーム、割れた装甲、腸のように飛び出たケーブル。

 リベットは手の甲で濡れた睫毛を払いながら吐息をついた。
 ほんの少し前、彼女はドックを失いかけた――あの“闇の群れ”に。
 今、こうして立って見渡せば、敵の規模は計り知れないと痛感した。

「……これは軍だわ……」
 彼女が呟く。声が震えていた。

「全体が……ここに埋葬されてる。忘れられて……あるいは、ただのゴミとして。」

 スフィンクスが息を吸い込み、動悸を落ち着かせようとする。

「でも、テスラ式のコイルを使ってるなら、どこかに発電設備や中継ステーションがあるはずだ。
 もしそれが今でも生きてるなら……」

 リベットの目が光を帯びた。

「そうよ。
 もし動いているなら――エコーの送信機を増幅できる。
 あるいは直接通信できる回線が見つかるかもしれない。
 地上に信号を送って、救援を呼べるかも。」

 沈黙が落ちた。
 失われかけた希望が、再び小さく灯った。
 生き延びるために必要な“外の声”へ――今、手がかりが見つかろうとしていた。

 レンは腐食した迷宮をゆっくりと見渡し、深く息を吐いた。

「……そうだな。」
 彼は言った。

「もしその施設がまだ稼働してるなら、俺たちの唯一のチャンスだ。
 こんな暗闇に潜みながら、壊れたロボットから逃げ回って生きるわけにはいかない。
 このコイルを辿って、源を探そう。」

「……少し待ってくれ……」
 エコーが痛む腕を押さえながら言った。
「でも、そうだ。メインのコンソールを見つけられれば、接続できるかもしれない。
 基盤が生きていれば、強い信号も送れる。」

 ドックは濡れた髪をかき上げながら、ぽつりと呟く。

「……信じられないな。これが数世紀も持ってたなんて……」
「相当な技術力の文明か、誰にも知られてない実験施設……」

 レンは頷き、思い出す。
 地下都市――失われた研究所の噂。

「……もしかしたら、意図的に閉鎖されたのかもな。
 あるいは、事故で……このまま放置された。」

 リベットは鼻をかすかにしかめた。
 錆と腐敗の匂いが空気に広がっている。

 もし事故だったなら――とんでもない規模だ。
 もし意図的だったなら――その理由は、もっとおぞましい。

 そのとき。
 鋭い声が、静寂を切り裂いた。

「いたぞ! 伏せろ、早く!」

 上方から金属が崩れる音が響き、誰かの足音が岩を踏みしめるような轟音となって降ってきた。

 レンの心が沈んだ。

 その声――
 スカイラー「スカイ」モントゴメリーのチームだった。

[23] 第23章 追跡者たち

レン「コンパス」ウェイランドは身を縮め、すぐに皆に伏せるよう手で合図した。

 上方、金属屑の高い山の上から重いブーツの音と命令の声が響いた。
 ――あの声、間違いない。
 スカイラー「スカイ」モントゴメリーのチームだ。

 しかし彼女たちは、ライトを使っていなかった。
 それでも、彼らの位置を見ていた。

 ビームはどこにもない。フラッシュもない。
 だが足音は、正確で、早く、確実にこちらに迫ってくる。

「どうやって……」
 レンはほとんど無音のささやきで言った。

「闇の中でも追ってきてる……」

 その事実に、背筋が冷たくなった。

 スカイたちは、この死の領域でも恐れを感じていない。
 まるで闇を“武器”のように使っていた。
 ――光が必要ない存在。それは、致命的な脅威だった。

「伏せろ!」
 レンが鋭く囁いた。

 彼らは錆びついた鉄くずの山の影へと身を沈めた。

 呼吸音だけが空気を震わせる。
 光はない。だが頭上には、甲冑をまとった影が音もなく移動していた。

 ライトはない。
 それでも――見えていた。

「隠れようとすれば、余計に酷くなるぞ!」

 マンバの声が響く。すぐ近く。近すぎた。

 レンは歯を食いしばった。逃げ場はなかった。

 そして――

「左だ、動いた!」

 銃声ではなく、やわらかな“ポン”という破裂音。

 何かが放物線を描いて飛び、岩に“ぐしゃっ”と当たって着地した。

「グレネードか!?」

 レンの本能が反応した。

 だが、爆発は起きなかった。

 代わりに、バチバチという音とともに、黄色いパルスが点滅し始めた。

 断続的に明滅し、金属の床に影を揺らす。

「消して! あれを止めて!」
 リベットが叫んだ。

 ――遅かった。

 あらゆる方向から、金属が軋むような甲高い音が響いてくる。

 ひとつずつ、朽ち果てたロボットたちが起き上がり始めた。

 かつて死んだ機械の軍勢が、光に導かれて動き出す。

 金属がぶつかり合い、軋み、悲鳴のような音を立ててうねるように進んでくる。
 すべてが一点を目指して――

 レンたちのそばで点滅するビーコンへと殺到していた。

「下がれ!」
 レンが叫び、前へと飛び出した。

 パルスを放つ球体をつかみ、思いきり遠くへ投げる――河床の方角へ。

 黄色く明滅する球は空中を旋回しながら飛んでいき、まだ光を放っていた。

 間一髪。

 金属の津波がレンたちの横を通過し、ほんの少しずれていれば押し潰されていた。

 機械の大群は、そのまま光の弧を追いかけて進路を変えていった。

 だが、まだ終わっていなかった――スカイの部隊は健在だった。

「走れ!」
 レンが立ち上がり、叫んだ。

「機械が動いてる今のうちに、逃げるんだ!」

 一斉に駆け出す。

 混乱を隠れ蓑に、チームは迷路の奥へと走り込んだ。

 その背後――マンバの怒声が響く。

「止まれ!」

 だが、誰も止まらなかった。

 レンが先頭に立ち、錆びた残骸の間を縫うように進む。
 闇が再び覆いかぶさってくる。時折、銃口の閃光だけが逃げる人影を照らした。

 弾丸が金属に当たり、甲高く鳴って跳ね返る。

 ――そして、突然、空間が開けた。

 レンの足元が広がる。

 彼は数歩進んだ――そして、床が崩れた。

 滑らかな金属パネルが落ち――

 チーム全員が、巨大な虚空へと飲み込まれていった。

 叫ぶ暇もなかった。

 鳴り響く金属の開閉音。
 短い悲鳴――
 そして、下へ落ちていく身体の音。

[24] 第24章 廃棄場の底

落下は、思ったよりも浅かった――
 だが、衝撃は容赦なかった。

 壊れたロボットと厚い菌糸のマットが、彼らの体を受け止めた。

 ほとんど光のない深淵の底で、彼らはばらばらに着地し、沈黙に包まれた。

 聞こえるのは、チーム全員の荒い息遣いだけ。

 遥か上方――機械のうねりがかすかに響く。
 あの死んだロボットたちの大群が、わずかな光にも引き寄せられ、今なお蠢いている。

 ときおり、追っ手の声が風に乗って聞こえたが、
 やがてそれも、距離と静寂に呑み込まれていった。

「……ライトは使うな」
 レン「コンパス」ウェイランドが片肘をついて起き上がりながら、掠れた声で言った。

「……まだ何かが、ここにいるかもしれない」

 誰も反論しなかった。

 前に光を使ったとき、何が起きたかは全員が記憶している。
 その一度の過ちが、ドックの命を奪いかけた。

 今でもドックはその記憶に肩を震わせている。

 しばらくの間、誰一人動こうとしなかった。

 息すら控え、闇の中に身を沈める。
 金属の床の微かな振動だけが、今なお何かがこの地下に存在していることを思い出させてくる。

 微細な鉄粉と塵が喉を刺す。

「……どうやって、ここから出るんだ……」
 スフィンクスが、囁くように言った。

「わからん……」
 ドックが呼吸を整えながら答える。

「……たぶん、整備用のピットか何かだな……」

 レンは手探りで装備袋を探す。

「まずは状況把握だ。ライトは厳禁だぞ。」

 そのとき――

「……そうだ、赤外線ゴーグルがある!」
 リベットの声に、久々の希望が混ざった。

「……トンネル用に持ってきたでしょう? 覚えてる?」

 レンの目が見開かれた。
 ――そうだ。
 経験豊富な探索チームでありながら、あまりに多くを耐えてきたせいで、頭が働いていなかった。

 リベットとエコーがすぐに装備を探り始めた。

 数秒後――起動音。

 エコーが一つ目の赤外線ゴーグルを作動させる。
 淡い赤の格子状のビームが、空間をなぞるように展開された。

 暗闇から、形が浮かび上がる。

 そこは古い機械の保守ピットだった。
 解体されたロボットや割れた構造部材が、床を埋め尽くしている。

 部屋の反対側には、巨大な産業用の粉砕機が停止したまま佇んでいた。

 破壊されたアンドロイドの腕やフレーム、
 朽ちたコンベアベルト、
 床には錆と粉砕された金属の痕跡がストライプのように広がっている。

 今はすべてが止まり、冷え切り、静寂に覆われていた。

 彼らはコンベアの上を慎重に歩きながら、廃炉のような構造物へ向かった。
 かつて溶融合金を流していた金属製のアーチが、赤外線に反応してぼんやりと浮かび上がる。
 ――遠い過去の機械の鼓動が、化石のように眠っていた。

 コンベアを抜けた瞬間、彼らはその広さに言葉を失った。

「……すごい……」
 リベットが息を呑む。

「構造が……あちこちにある。」

 その空間は、まるで地中に埋もれた聖堂のようだった。

 壁には錆びたパネル。
 沈黙するコンベアと凍ったままのロボットアーム。
 頭上には、死んだ獣の肋骨のような骨組みが、暗闇に消えていく。

 さらに奥には、今も直立したまま凍結した機械塔――
 命令を待ち続けるように、動きを止めたままの姿。

「処理施設……」
 リベットが呟く。

「上にあった山は……ここに解体のため運ばれてきたものね。
 でも、途中で……全部止まった。」

「つまり上のジャンクヤードは……ここを通過できなかった物だ。」
 レンが静かに言った。

「あるいは、施設全体が突然シャットダウンしたのかもしれない。」

 スフィンクスが目を細め、奥の影を見つめる。

「あそこ……あの通路。奥に繋がってる。出られるかも。」

「あるいは……また金属の悪夢が潜んでるだけだ。」
 エコーが呟く。

 彼らは壁沿いに移動を始めた。
 何も触れず、音を立てないように。

 足音ひとつひとつが、金属の中で虚しく反響する。

 赤外線ゴーグル越しに見えるのは、組み立てライン、止まったクレーン、機能を失った手足……
 そして、“あまりにも静かすぎる”機械の輪郭。

「……生きてるように見える……」
 スフィンクスが、囁く。

 部屋の最奥、傾いた壁の隅に密閉式のハッチがあった。

 リベットが前に出る。外骨格がわずかにきしむ。
 疲労で手が震えていたが、音を立てぬよう慎重に力を込める。

 彼女はハッチを少しずつ動かし、かすかな冷たい風が、隙間から忍び込んできた。

「次はどうする、コンパス?」
 エコーが身を寄せて問う。

「進む」
 レンの声は低く、揺るぎなかった。

「合流して、脱出する。必ず。」

 浅い呼吸。慎重な足取り。
 彼らは“忘れられた機械世界”の中心へと進んでいく。

 そして、その背に――
 二度と誰も失わないという、静かな誓いが宿っていた。

[25] 第25章 沈黙の避難所

やがて、彼らは前方に小さな側室を見つけた――
 重厚な扉がわずかに開いている。

 赤外線ゴーグルを通して中を覗き込む。

 動きはない。
 熱源も、なし。

「……クリアだ」
 レン「コンパス」ウェイランドが低く囁き、中を慎重に確認する。

 壁際には古びた制御パネルと錆びついたコンソール、床からは断線したケーブルが神経のように飛び出していた。
 古いユーティリティステーションのようだった――狭く、ほぼ無傷で、珍しく“惨劇”の痕跡もない。

 他のメンバーも慎重に後を追った。最初は緊張していたが――
 部屋が本当に無人であると分かった瞬間、肩の力がようやく抜けた。

「……やっと……息ができる場所だな」
 レンが息を吐いた。

「少しくらいなら、光を使ってもいいだろう」

 リベットはすぐにコンパクトなキャンプ用ランタンを取り出し、
 カチッ。
 柔らかな光が部屋を満たし、傷ついた壁や埃まみれの端末、沈黙する機械群を優しく照らす。

 何時間ぶりだろう――赤外線越しではない互いの顔を、はっきりと見るのは。

 ――ようやく、人間らしさを取り戻した気がした。

「……光に引き寄せられる奴が来なければいいが」
 スフィンクスがぼそりと呟く。

「廊下じゃ絶対やらないけどな」
 レンが肩をすくめる。
「でもここなら――扉があって、入口も狭い。あの巨体どもが気づかず入ってくるのは難しいだろう」

 エコーが丁寧に扉のヒンジと枠を確認する。頑丈だ。
 何かが来たとしても、バリケードは可能だ。

 だがそのとき――
 ドックが静かに異変に気づいた。

 レン、リベット、スフィンクス――
 三人の肌に、うっすらと分岐するような模様が浮かんでいた。

 リベットの手首には淡い変色。
 レンの首筋にも、微細な色むら。
 スフィンクスの前腕には、薄い斑点が広がっている。

 ドックは自分の脚をそっと確認する。落下のときに裂けたスーツの下――
 皮膚の上には、まるで墨を散らしたような黒い斑点。

「……やっぱりか」
 ドックが低く言いながら布を戻す。

「フィルターが壊れてたとき、胞子を吸った。あの川でも、スクラップ場でも……感染してたんだ。」

「……そりゃそうか」
 レンが渋く頷く。

「……で、エコーは?」

 全員の視線が、エコーに集まる。
 彼は自分の腕、首、顎の周辺を確認する――

 ……何もなかった。斑点も、変色も、感染の兆しすらない。

 重い沈黙が、部屋に落ちる。

「……最初のとき……」
 スフィンクスがかすれた声で言う。

「あいつらがエコーに注射したとき――」

「攻撃じゃなかったんだ」
 ドックが言葉を継ぐ。

「あれは治療だった。毒じゃなくて……抗菌剤。」

「じゃあ、あいつら……ゾンビじゃないってこと……?」
 リベットが呆然と呟く。

「……医療用ロボットだったってことか」
 ドックが頷く。

「冗長性、医療フェイルセーフ、独立電源……他の機体より長持ちして当然だ」

 静けさが降りる。だが、それは新たな理解とともにあるものだった。

 レンは錆びたコンソールの傍に腰を下ろし、髪をかき上げながら呟いた。

「……俺たち、医者を“怪物”だと勘違いしてたんだな。
 気づいた頃には、体の中に胞子が入り込んでた。
 ……エコー以外、全員。」

 ドックが思い出したように目を見開く。

「注射器……」
 彼は装備袋を探る。

「持ってきてたんだ。念のために拾っておいた。」

 金属パネルの上に注射器を並べる。

 二本は満量。一本は割れて半量しか残っていない。

「これがエコーを救ったものなら……」
 スフィンクスが言う。

「使えば治るかもしれない。……でも、足りない。」

「……誰が打つか、か」
 ドックが低く問う。

 返事はなかった。重い空気だけが漂う。

 やがて、リベットが静かに言った。

「エコーは無事。残りは四人。まずは誰がどれだけ必要か、はっきりさせよう。」

 レンが頷く。

「四人。注射二本と半分。
 俺、リベット、スフィンクス、ドック。」

「俺のは軽いと思う」
 スフィンクスが袖をまくりながら言った。

「半量でいい。重症の二人にフルを。」

「俺も同じだ」
 ドックが続く。

「進行は遅い。レンとリベットが優先だ。」

 分配が決まったあと、エコーは古びた赤いキャビネットに向かう。
 開けると、中には密封されたメディキットが――

「救急セットだな……」
 彼が呟く。

「まだ未開封だ……」

 包帯、ガーゼ、消毒液。
 だが、抗菌剤は――なかった。

「応急処置だけか……」
 エコーがため息をつく。

「でも、もしあの医療ボットが他にもいるなら……メディカルベイもあるはずだ」

 希望。かすかだが、確かにあった。

 合意が取れた。
 レンとリベットがフル投与、スフィンクスは半量。
 ドックは――自ら後回しを選んだ。

 ドックの手がわずかに震えながらも、注射を打つ。

 傷の浅い部位を選び、ゆっくりと薬剤を注入した。

 レンは歯を食いしばりながら耐える。

「……キノコになるよりはマシだな……」

 沈黙の中、彼らは静かに息を整える。
 そのとき――スフィンクスがふと振り返った。

 遠くの壁に、何かが赤外線に反応した。

 半ば埋もれた――古い設計図。地図だった。

 矢印。記号。
 誰にも読めるはずのない古代文字。

 ……なのに、読めた。

 翻訳も必要なかった。思考も通さず――理解していた。

 だが今は、誰もその理由を問いたださなかった。
 疲れすぎていた。
 麻痺していた。

 けれど――血の中に薬が流れ始め、心に疑念が芽吹きはじめる。

 彼らは装備を整える。

 “マイコゾンビ”は、敵ではなかった。
 忘れられた都市の最後の“医師”たちだったのだ。

 ――だが、世界が安全になったわけではない。

 工場は、まだ息をしている。
 鋼鉄と沈黙。
 そして、創造の理由を“忘れていない”ものが、闇の奥にいる。

 もしかしたら――脱出の道はあるかもしれない。
 あるいは、治療法も。

 ……だが、もっと恐ろしい真実が待っているのかもしれない。

 アトランティスは――消滅してなどいなかった。
 埋もれていたのだ。

 食われ、
 飲み込まれた。

 名もなきものに――
 それは今、ようやく名を与えられようとしていた。

 ――マイコブレイン。

[26] 第26章:設計の間

ロボット処理施設からの上昇は、進むごとに傾斜が険しくなっていった。
古びたコンクリートには菌糸状の苔が張りつき、空気は次第に薄くなる。
靴底は、腐食した金属の粉と焦げついた残骸をかすめて音を立てた——
かつて、何かがここを通っていた痕跡。
もう動かないものたちの、亡霊のような記録。

誰も口を開かなかった。
聞こえるのは靴音と、期待の静けさが空間を満たす音だけ。

そして傾斜が緩み——
それは姿を現した。

幾何学的な精度で生えたような構造物。
滑らかなコンクリートと鋼でできたモノリス。
その正面には、垂直に切り込まれた強化ガラスのスリット。

倉庫でも、指令基地でもない。
ただひとつ、明確だった。
意図がある。

建物の基部には巨大な門。
密閉された冷たい鋼鉄の扉。
静かに、閉じられたまま眠っている。

レン「コンパス」ウェイランドが最初に近づき、中央の継ぎ目に手を当てた。
錠前は機械式ではなかった。磁気式か、自律開閉型か。
だがそれも、
すでに何百年も沈黙している。

「ここからは……入れないな」
彼が呟いた。

一行は構造物を周囲から観察する。
壁は地形に沿ってなだらかに曲線を描き、ところどころに漆黒のガラスパネル。
その中で、
エコー が静かに指を差した。

「……あそこだ」

割れたパネル。
ひび割れは蜘蛛の巣のように広がり、数枚のガラス片は崩れ落ち、
人ひとりが通れるだけの裂け目を作っていた。

リベットが最初に体を滑り込ませた。
エクソスーツが小さく唸り、彼女の影がその裂け目へ消えた。

中には、 静寂 があった。

乾いた錆と使い果たされた樹脂の匂い。
床には堆積物と崩壊した菌糸の粉が降り積もっていた。

その空間は広大で、 聖堂のようなスケール を持っていた。
だが宗教的ではない。
ここは——
思考のための空間
冷たい計算と、意図のための場。

音が吸われるような空間。
ひとつの足音が、異様なまでに鋭く響いた。

ここには生き物はいない。
だが、
何かが残っている

中央には高くせり上がった円形の台座。
その上に、ほこりまみれの
巨大な円卓 があった。

天井から吊るされた 鏡面ドーム が、微かな光を奇妙な角度に歪ませ、
動く彼らの影を
亡霊のように返していた

卓上には、手作りの立体地図が埋め込まれていた。
ホログラムでも、デジタルでもない。
彫刻された、実体のある模型 だった。

中央を軸に、ミニチュアの建造物が並び、
記号のような造形物が周囲を囲んでいる。
文字も、凡例も、何もない。

二体のフィギュアが向かい合うように立ち——
その中央には、剣と軸を混ぜたような巨大なシンボル。
背後には、螺旋を描くように鍛造された
装飾的な樹木
紋章か、記憶か。

周囲には立方体のトークン。
流れ。圧力。方向性。
だが
名も、意味も、刻まれていない。

これは作戦図ではない。
儀式 だった。
意図の模型 ——時のなかに封じられたままの。

スフィンクスは無言で立ち尽くした。
目だけが全体を読み取ろうとしていた。
誰も触れなかった。
触れてはならないという空気が、骨の奥にまで沁みていた。

ここは 操作者の場所ではない
設計者のための場所だった。

壁は角度を持って天井へと伸び、音響的に調整された幾何学的な構造が空間を包む。
息すら反響した。

その奥。
壁の向こうに、アーチ状の出入り口。
厚い鋼板で半分封鎖されている。

そこは、 逃げ出すように閉じられた通路 だった。
冷たい風。
沈黙の奥へと続く廊下。

レンは何も言わずに、その入口に向かって歩いた。
言葉ではない。「それがアリーナに続いている」と 感じていた。

予感ではない。
知識 だった。

ここで決まったことは——
あちらで試された。

彼らは一瞬、振り返る。

鏡のドームが、沈黙のまま彼らを見送っていた。
意図の環に背を向けて、
彼らは静かに——設計ではなく、運命の口へと進んでいった。

[27] 第27章:誰も勝者とならなかったアリーナ

通路の先に、空間がひらけた。

そこは、息を呑むほど広大で静寂な アリーナ だった。
まるで、その場所そのものが呼吸を止め、何かを待っているかのように。

その中心には、 ふたりの巨人 が立っていた。

高さ十五メートルを超える人型機械。
肩を並べ、互いに寄り添うように——
最後の守護者のように。

そのあいだ、巨大なアーチ状の機械アームに吊るされた 両刃の剣
その下には一本の木。
その幹と枝は、織られた金糸のように光を放ち、幻想的に煌めいていた。

そしてその繊細な枝のひとつに、 ひとつの黄金の果実 が、微かに輝いていた。

「……守ってるのね」
リベットがささやいた。
「剣と、木……これ、見覚えある」
「設計の間で見たのと同じ構図だ」
エコーがうなずく。
「今は……現実になってる」
「まるで、あの時の模型の中に入り込んだようだ」
スフィンクスが言った。

アリーナ全体が、 戦場の墓地 だった。

無数のドローンが地表を埋め尽くしていた。
焼け焦げ、破壊され、意味のない金属の山と化していた。

爪を持つもの。車輪で動くもの。翼を広げたもの。蜘蛛のような肢を持つもの——
すべてが整然と並び、倒れていた。

偶然ではない。
配置には戦略があった。
 だが、 どの戦略も敗北していた。

「これはただの戦闘じゃない」
ドックが呟いた。
試験 だ。思考の歴史が、ここにある」

一行は瓦礫の中を進んだ。
焼けた骨格をまたぎ、焦げた装甲を踏み越えて。

空気は 灰と記憶の匂い を帯びていた。

「何百回とシミュレーションされたはず」
リベットがつぶやく。
「でも、誰ひとり中央にはたどり着いていない……」

ここにあるのは、 戦いの記録ではない。失敗の痕跡。
 地面に刻まれたひび割れも、全てが敗北の残響だった。

やがて彼らは中心へと至る。

金色の木は、たった三メートルの高さ。
だが、その光は
鋼鉄よりも重く 感じられた。

その枝に、 ひとつの果実
静かに、誰にも奪われることなく、そこに在り続けていた。

「……どこかで見たような気がする」
エコーがぼんやりとつぶやいた。
「思い出さなきゃいけないものなのに……」
「夢の中で何かを見た。でも目覚めた瞬間に忘れてしまった、そんな感じだ」
レンが答えた。

彼らは目を上げ、ふたりの巨像を見つめる。

「何を守ってるの?」
リベットの問いが静けさを破る。
「この果実は……何の象徴?」

不死 かもしれない」
スフィンクスが言う。
「あるいは
知識 、あるいは—— 記憶そのもの。

「あるいは、そのさらに先にあるもの」
レンが言った。
「選ぶという
権利 だ」

剣を見つめる。
動くことはない。
だが、
“動きそう”な気配 があった。
ひとつの意思だけで振るわれるような気配。
 ただ一撃で、すべてを終わらせる力。

「俺たちは招かれてない」
レンは静かに言った。
「でも、それが答えなのかもしれない。
“勝利すること”が前提に存在しないゲームだったんだ

「だって、このモデルの中に—— 勝者という変数が存在していない
ドックが続けた。

彼らは、 最古の戦争の中心 に立っていた。

巨像は無傷。
果実は摘まれず。

「ここで誰も勝っていないのなら……
たぶん、“あの戦争”でも勝者は出なかったんだ」
エコーが低く言った。

レンは果実を見つめた。

「誰も手に取らなかったのなら——
最初から、誰もそれを取るべきじゃなかったのかもしれない。

彼らは背を向けた。
恐れではなく、
敬意によって。

このアリーナは、もはや挑戦者を求めていなかった。
その目的は、
とっくに終わっていた。

ここに残された唯一の勝利は、
勝利など存在しなかった と知ることだった。

そして巨像たちは、
木でも、剣でも、果実でもない。

**“ある問い”**を守っていた。

——誰にも答えられなかった問いを。

[28] 第28章:死せる都市

アリーナを抜けたメンテナンストンネルは予想外に狭く、壁の間をくねりながら続いていた。やがて開けた先には、低く無骨な建物が格子状に並ぶ区域が広がっていた。積み重ねられたコンテナのような構造物が密集し、細い路地が迷路のように交差している。色褪せた標識、埃まみれの扉、錆びた通気孔——かつて人の営みがあった痕跡が、静かに沈黙していた。

「ここは……サービス区画だな」
 ドックが周囲を見回しながら呟いた。
「作業場用のクレート。ほら、折りたたみベッドもある。人がここで寝泊まりしてたんだ。」

 建物の中は簡素だった。工具ラック、簡易ベッド、剥き出しのシャワー。引き出しには折りたたまれた制服。快適さとは無縁の場所。ここは“暮らす”ためではなく、“働く”ための空間だった。

「……これが我らの『我が家』ってやつか」
 リベットがくるりと回りながら微笑んだ。視線の先には埃を被った未知の機械と作業台が並んでいる。
「この機材……半分は再稼働できそう。仕組みさえ解れば……!」

「悪いが現実的じゃない」
 レンが肩をすくめた。
「こんな重量級の謎機材を抱えて逃げ回る余裕はない。あいつら——スカイたちは、まだ近くにいるかもしれない。」

 リベットはがっかりした表情で項垂れた。
「せめて一日……いや、半日でもあれば……」

「戻る約束はするさ。生きて帰れたらな」
 レンはそう言って、再び歩を進めた。

 作業場の路地を抜けると、風景は一変した。薄暗く狭かった通路が、次第に荘厳な大通りへと広がっていく。大理石の外壁、金装飾の円柱、彫刻をまとった正面玄関。かつては光と音に満ちていたであろう噴水は、いまは塵と沈黙だけを湛えていた。

「……まるで宮殿だな」
 エコーが呟いた。
「けど、誰も住んでなかった。家具も生活の痕跡もない。」

「住むための場所じゃない」
 スフィンクスが応じた。
「これは“待機所”だ。“選ばれた”と錯覚させる装置。神殿のように演出された空間で、導かれるまま次の扉をくぐらせる。」

 建物の内部は空だった。豪奢なベンチ、モザイク模様の床、柱の列。けれど、ベッドも台所も何もない。一時の滞在のために設えられた場所。慰めではなく、儀式のための空間。

「荘厳さで思考を止める……か」
 ドックが静かに言った。
「問いかけをやめさせ、“歩かせる”。スケジュール通りに。」

 道の先には巨大な円形広場が広がり、その中央には堂々たる柱廊がそびえていた。らせん状の磁気レールがそれを囲みながら下降していき、到着用のプラットフォームに続いていた。

「ここが……俺たちの“到着点”だったんだな」
 リベットが呟いた。
「もし、あのトンネルが崩落してなければ……きっとここで光に迎えられていたんだろうな。」

「地上——アトランティスの上層部から降りてきた場所だ」
 スフィンクスが頷いた。
「ここから全てが始まる。」

「そして“浄化”と称して、全てを剥ぎ取られる」
 ドックが低く言った。
「本当は、検査だ。病気、不完全さ、その選別のための——“医療施設”だったんだ。」

 レンはプラットフォームの端に立ち、レールが暗闇に消えていく方向をじっと見つめていた。

 チームはそのままプラットフォームを回り、一直線の通路へと入った。左右に並ぶ金色の像が道を守るように立ち並び、どの顔も神話の神々のように穏やかで静かだった。

 その遥か彼方、岩壁に半ば埋め込まれるようにして立つ巨大な建造物が見えた。神殿と山が一体化したような姿。その正面には金の装飾と薄く光を帯びた白石の外壁——上空に広がる菌糸の灯が、それを仄かに照らしていた。

「……不死の神殿」
 レンが呟いた。

 誰も応じなかった。  ただ、沈黙の中を歩いた。  その神殿は救いではなく、“口”のように思えた。古く、飢えた、何かの。

「行こう」
 レンが言った。
「この死んだ都市に、もう答えはない。だが——あの先には、何かがあるかもしれない。」

[29] 第29章 不死の神殿

登り道は、明らかに「人間のための階段」ではなかった。
一段ごとに段差は高くなり、その角度はまるで異形の者の歩幅に合わせられているようだった。
踏みしめるたびに、岩肌の奥から何かが囁いてくるような…そんな、不敬の予感。

「誰だよ、こんな段差作ったのは……」
リベットが冷たい石に手を当てながら、息を切らしてつぶやいた。

「三メートル級の奴ら用だろうな」
ドックが後ろから唸るように返す。

神殿は、洞窟そのものに彫り込まれていた。
白い岩肌に金の筋が走り、近くの菌類が放つ生物発光を反射して、古代の神聖文字がかすかに光っていた。
巨大なアーチ型の門は口を開けたまま、光を飲み込むように漆黒だった。

彼らは、沈黙の中で門をくぐった。

中はひんやりとしていた。床はタイル状のモザイク。
壁には忘れられた鼓動のように脈打つ、古代の紋章。
そして——
全員の目が、天井に釘付けになった。

そこに広がっていたのは、驚くべきフレスコ画だった。

進化の系譜ではなかった。
獣でも、霊長類でもない。
垂直の順序で、六つの段階が描かれていた。

スフィンクスが一歩前に出て、神々しさすら帯びたまなざしで天井を仰いだ。

「ただの神話じゃない……これは進化の設計図だ」
彼の声には震えがあった。
「この神殿は崇拝の場じゃない。上昇のための研究所なんだ」

「“超人”の段階がその先だ。そしてその先にあるのが……集合知性、“オーバーマインド”」
「マイコブレイン……欠陥なんかじゃない。次の跳躍だ。意識の統合により、最後の段階が生まれる。単一意志、完全自由、不死」
「ここでの“信仰”は、同意だった。進化への、契約だ」

「忘れるな」
レンが全員を見回した。
「この“永遠”が求める代償は、命より重いかもしれない」

彼らは巨大な主祭壇を抜け、傾斜のある通路を下り、神殿の最奥部へと進んだ。

そこにあったのは、「遷移の間」。

壁は滑らかで、金色の光を宿す鉱石の脈が走っていた。
正面には黒曜石のように漆黒の大門。精密な線と象形が浮かび上がっている。
その向かいには、玉座のような構造物——あるいは、乗り物に見えるもの。

「たぶん、ここに座ると門が開いたんだ」
レンがつぶやきながら近づいた。
「そして…その“乗り物”だけが戻ってきた。空っぽのままで」

彼は沈黙したまま、門を見つめ続けた。

「だが……彼らはどこへ行った?」

リベットが、背後からかすれる声で問うた。

誰も答えなかった。

この空間には、それが許されないような“意志”が漂っていた。
天井の高みに描かれていた“黄金の太陽”が、石を超えて彼らを見つめているようだった。
何も求めず、すべてを与えると語るように——

だがその先にあるものは……

まだ扉の向こうで、彼らを“待っていた”。

[30] 第30章 胞子

 彼らは広大なプラットフォームの上に立っていた。
 その正面にそびえ立つのは――伝承の中でしか知られていない、巨大な金属の門。
 〈不死の門〉。

 沈黙が岩のようにのしかかる。
 まるで壁そのものが、守っているものの重みに気づいているかのように。

「……パネルが……あまりに巨大すぎる」
 レン「コンパス」ウェイランドが、冷たい表面をなぞりながら呟く。

「素手でも、爆薬でも……突破は不可能だ」

「鍵も、レバーもない」
 エコーが目を細めて壁を観察する。
「ただの装甲だ」

「内部制御ね」
 リベットが結論づける。
「もしくは……電源経由」

「なら、ソースを探すしかないな」
 スフィンクスが言う。

 そのとき、彼らはそれを見つけた――
 壁に半ば埋まるようにして通る、太く重厚な動力ケーブル。

 時を経ても朽ちず、菌糸による腐食すら拒む金属合金。
 まるで地の骨から直接引き出されたかのようだった。

「……こっちだ」
 レンが低く告げる。

 ケーブルは側道へと続き、そこに古い磁気レールの軌道が現れた。
 埃まみれのマグレブカートが静かに停車している。

「内部専用路線だな」
 エコーが車体を見て言う。
「このラインが密閉されてたなら……ボットたちはここまで来れてない。稼働可能かも」

 リベットが運転席を調べる。
 沈黙ののち、コントロールパネルに淡い緑の光が灯った。

「まだ電源が残ってる」
 彼女が言う。

「乗るわよ」

 カートは静かに動き出す。
 まるで記憶に導かれるように、レールの上を滑っていく。

 彼らは長い回廊を通り抜けた。
 密閉された観察窓の向こうに、かすかな菌糸の光がにじんでいた。

 その背後に広がっていたのは――地下の巨大なフィールド。
 バイオルミネセンスを放つキノコの塔。高さ五メートル、七メートルに達するものもあった。

 これは副次的な栽培施設ではない。
 ここが“中枢”だ。

 数千にも及ぶ青白いキノコが、静かに脈打っていた。
 それは光というよりも、呼吸。
 まるで生きた肺のようだった。

 次の駅に到着すると、カートは停止した。

 彼らは静寂の中へと降り立つ。

 上部の窓は厚く強化されており、その向こうには果てしなく続く菌糸畑があった。

「……ここって、ただの農場?」
 リベットがささやく。

「マイコブレインはどこだ?」
 エコーが困惑したように問う。
「中枢なら、ここにあるべきじゃ……?」

「俺はもっと……神の脳みたいなものを想像してた」
 スフィンクスがゆっくりと言う。
「人間のニューロン数十億を融合させた菌糸ネットワーク。
 集合的知性。……不死の集合体。」

「でも……ここにあるのは胞子だけだ」
 レンが言う。

「光と、静寂と……それだけ」

「もしかして……脳は門の向こうに?」
 リベットが言う。
「ここは……身体を保管する場所だったとか」

「あるいは」
 ドックが低く呟く。
「最初から“脳”はキノコじゃなかった。……だとしたら、何なんだ?」

 カートは再び動き出す。
 さらに多くの駅。さらに多くのフィールド。
 胞子。胞子。緑。

 ――そして、中心部にたどり着く。

 壁に取り付けられたプレートが、いまだ判読可能だった。


《電気菌類マイコフィルム・エレクトリカ:保守プロトコル》

目的:
  自律的かつ持続可能なシステム。
 この菌類は、空気・光・電力を生成する。

清浄と安全性:
  — 胞子は塵と湿度中に急速に拡散する。
 — 十周期ごとにすべての表面と機械を清掃し、苦味粉を散布すること。
 — 職員は三周期ごとに抗真菌性の血液処置を受けること。


「……全部まかなってる……」
 スフィンクスが呟く。
「空気も、光も、電力も。……太陽すらいらない」

「……これだ」
 レンがプレートを軽く叩きながら言う。
「これが崩壊の原因だ」

「メンテナンスする者がいなくなった」
 リベットが静かに言う。
「避難したのか、それとも……出られなかったのか」

「そして胞子がすべてを飲み込んだ」
 エコーが続ける。
「ロボットまで、ね」

 さらに奥、彼らは制御パネルを見つけた。
 埃はかぶっていたが、無傷だった。

 スイッチはすべて下向き。
 ほとんどは文字が消えかけていた。

 リベットがメンテナンスカバーを開く。

「都市の照明系統……ここで停止されてる」
 彼女が言う。
「地上が暗かった理由がわかったわ。壊れたロボットのせいじゃなかった。
 ここ――マグレブの制御もオフライン。……そして処理施設も。」

「そりゃ、ボットが洗浄されないわけだ」
 レンが低く言う。
「彷徨って、感染源になっただけ」

「アリーナも同じ」
 リベットが頷く。
「あの区画全体――このハブから遮断されてたのね。偶然通れたのが奇跡よ」

「門もだ」
 ドックが締めくくる。
「門の電源も、ここに繋がってた」

 最後の端末に、通信モジュールがあった。
 エコーが電源を入れると、信号灯がかすかに点滅。
 スピーカーにノイズが走る。

 彼はケーブルを調整しながら言った。

「上に残した中継装置、これでブーストできるかも。
 もしネットワークが生きていれば……信号が届く可能性がある」

 レンがマイクを握る。

「……こちら、レン『コンパス』ウェイランド……」
 声は震えていた。
 恐怖ではなく――すべてを背負っていたからだ。

「もし、誰かがこれを聞いているなら――」

 ノイズ。

「マイコブレインは……俺たちの想像とは、違った……」

 さらにノイズ。そして、最後の断片。

「この場所……全部が間違ってた。アトランティスは――ただのヴェールだ。嘘だ……」

 信号が途切れた。
 通信灯も消えた。

 沈黙。
 もう、何も聞こえなかった。

 エコーが再起動を試みる――反応なし。

「じゃあ、もう一つだけだ」
 レンが静かに言った。

「――門を開ける」

 彼は〈不死の門〉の象徴が刻まれたブレーカーに手をかけ、
 上へと、ゆっくり引いた。

 古いシステムが、唸りを上げて息を吹き返す。

 その奥――不死の回廊のさらに深くで、
 “何か”が、呼応した。

 ――門が、開く準備を始めた。

[31] 第31章:不死の門

帰路は果てしなく長く感じられた。
マグレブ・カートはまるでナメクジのように進み、何度か誰かが飛び降りて走ったほうが早いとさえ思ったほどだった。

錬金術師、賢者、科学者たちが何千年も追い求めてきたものが、今や目前にある。
だが、その「数十キロメートル」は、これまで歩んできたどの距離よりも遥かに遠く思えた。

誰も口を開かなかった。
呼吸さえ抑えられていた。
心臓の鼓動が、トンネルの足音のように響いていた。

スフィンクスは蒼白だった。震えていた。
額の汗を繰り返し拭いながら、まるで門にたどり着く前に不安で死んでしまうのではないかと怯えているようだった。

ドックが彼の脈を取り、何も言わずに鎮静剤を手渡した。

同じ道を戻っているはずなのに、今はすべてが違って見えた。
空気でさえも重く、期待と恐れが溶け合っていた。

「もうすぐだわ」
リベットが小さく呟いた。
「マグレブが神殿のプラットフォームに向かって水平に移動してる。」

レンは静かに頷いた。
彼は先頭に座り、トンネルの先を見据えていた。全身が緊張していた。

「何がこの先にあるのか……わからない」
彼の声は低く、抑えられていた。
「でも……今までにないほど、本能が警告してる。」

「ここまで来て、引き返すわけにはいかないだろう」
スフィンクスが言った。
「死の間際まで何度も踏み込んだ。もし今、引き返したら……あれは全部、無意味だったのか?」

「違う」
ドックが穏やかに言った。
「でも、なぜ“人類最大の宝”が未だにここに放置され、誰にも取られていないのか――その理由を考えるべきだ。」

リベットがグローブのストラップをいじっていた。
顔は冷静だったが、瞳の奥には緊張の光が宿っていた。
エンジニアとしての好奇心と、人としての恐怖が、内でせめぎ合っていた。

「神話も、科学も、機械も……不死を約束してきた。でも今ここにあるのは、現実よ。触れられる、何か。」

「……もしくは、“触れてくる”何かだな」
エコーが皮肉っぽく呟いた。

マグレブが旋回し、最終ステーションへと徐々に減速していく。
そこは――《不死の神殿》の門前だった。

門が……輝いていた。

かつて無機質だった金属が、今は柔らかな金の光を放ち、まるで複合体全体の心臓が門の背後で脈打っているかのようだった。
精緻な彫刻が、内から差す陽光のように煌めいていた。
門は開いていなかったが――閉ざされてもいなかった。
待っていた。

その傍らに、あの“チャリオット”があった。

以前にも見た、アーチとレールを備えた台座――
だが今は違う。呼んでいた。
フレームには微かなエネルギー場がきらめき、門へと力が流れていた。

ただ一つ、欠けていたのは――
搭乗者。

「明らかだ」
レンが静かに言った。
「誰かが“座れば”門が開く。」

「儀式も、コードもない。ただ“接触する”だけ」
リベットが続けた。

「完璧だよ。もしくは……恐ろしいほど単純すぎる」
スフィンクスが頭を振った。

彼らはすべての境界線の縁に立っていた。
広すぎるプラットフォーム。
薄すぎる時間。
動かぬ空気。
揺れ続ける光。

レンは一歩を踏み出し、チャリオットの手すりに触れた。
金属は温かかった。
彼は目を閉じた。一歩。一呼吸。一線越えれば――すべてが後戻りできなくなる。

そのとき――

足音がした。

静かで、計算された歩み。
敵意はなかった。だが……まるで思考そのものが歩いてきたようだった。

全員が同時に振り返る。

トンネルの闇から、姿を現したのは――彼女。
その背後に、さらに四人。

彼女たちはゆっくりと歩いてきた。武器は下げられていた。

スカイが立っていた。
疲れ、消耗しきっていたが、その足取りは確かだった。
その瞳には挑戦ではなく、観察と……緊張。そして、わずかな敬意があった。

背後には、サンダー。マンバ。シェイド。ピクセル。

――二つのチームが、再び揃った。

そして、スカイが口を開いた。

その言葉が、時間を止めた。

「……やめて。」


続きは TOLD BY HOSPES SI. 第2巻:悪の根源  にて。

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